おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ながい旅  (第1108回)

 先述のとおり、映画「明日への遺言」は、大岡昇平「ながい旅」(角川文庫)が原作です。エンディングのクレジットに、ちゃんとそう書いてあるし、いい場面を幾つも丁寧に拾っている。法学と仏教の難しいところは、適度に抑えている。

 誰の何が「明日への遺言」なのか、映画は明確には語らない。「ながい旅」も作者がその意味するところを、一つ紹介しているが、書き方からして明らかに、それが全てではない。


 そういう訳で、これは受け手が自分で考えて決める余地が残されている。中古でも図書館でもレンタルでも構わないから、ぜひ映画と本に接していだければと思う。これだけ広告宣伝しても、もちろん私には何の金銭的見返りもないが、まあ遺言みたいなものだ。

 これまで当方は意識して、岡田司令官の言動をそのまま引用転記するのを極力、避けてきた。そういうことを何度もすると、何だか出来の悪い箴言集みたいになってしまいそうだからだ。本物の魅力を減じては失礼です。


 大岡昇平著「ながい旅」は、岡田氏本人が獄中で書き遺した文章、部下や囚人仲間の証言、アメリカの裁判記録、そして関係各地での取材など様々な情報源にあたって作られており、これだけで著者にとっての長い旅でもある。こういう素材に恵まれ、これだけの精力的な取材・執筆ができないと、書き手というのは務まらないのだろう。きっと。

 私が読んでいて興味を覚えたのは、弁護人側の証言集である。普通そういう証人は、「この被告は、そういうことをする人ではございません」と主張する役回りだとおもうのだが、本件は違う。証明すべき事柄の根幹に、空襲や原爆はアメリカ合衆国による残虐行為であり、国際法違反であるという論点が微動もせずに、ある。


 実際の証人は、二十数名も挙げられているが、中でも印象が強いのは、20番目の証人、水谷愛子、50歳、3児の母。映画で田中好子が演じていた孤児院の院長先生である。映画では示されていないが、その孤児院は名古屋ではなく、神戸にあった。

 そういう証人がなぜ必要だったかというと、東海軍が処刑した搭乗員の中には、関西での空襲中または帰還中に撃墜され、本州ではお馴染みの西風にパラシュートが流されて、東海軍の管轄地に降りてきた者もいたからだ。


 このため、神戸においても、名古屋近辺と同様の民間人無差別殺人が行われたという証人として水谷は呼ばれた。大岡昇平は彼女の応答の切れの良さと、これ以上、優れた証言をされては困る検察側が反対尋問を辞退したことをもって、「極めて信用できる証人」と評価している。前出「岡田会」にも彼女の名がみえる。

 ちなみに、彼女の証言に出てくる神戸の空襲は、1945年の3月17日と6月5日の二回で、6月5日のほうが酷かったと語っている。この日の神戸大空襲について、わたしたちは一つの物語を得ている。野坂昭如、「火垂るの墓」。ホタルの季節といえば六月だ。



 大岡さんは、被告の一人だった成田中尉の手記も読んでいる。その中に、結婚したばかりなのに敗戦で夫の逮捕を迎えた奥様が、裁判所内で夫と笑顔の挨拶を交わす場面が出てくる。法廷は公開であったが、家族といえど被告と会話はできない。これも映画に出てくる、ほんの一瞬ですが。

 映画で、司令官がスガモ・プリズンの刑場、13号室に向かうとき「いい月ですなあ」と言った言葉や、その日を迎えた朝にMPから呼び出されたときの「よし来たっ」という台詞も、実際にその場にいた人たちから聞きとったものだ。


 どうしても岡田司令官の文章が読みづらい理由があって、大岡昇平も率直に書いているように、仏教の話題が頻出するからだ。言葉の意味さえ分からない。ともあれ、仏の教えは死刑囚の精神の支えとなったが、それだけではない。

 彼はGHQとかけあって、囚人同士が交流する時間帯を設けることに成功し、それを使ってお経や座禅を死刑囚らに伝え諭した。これもまた遺言だろう。これから、しっかり生きろと何度でも言っている。当人はこれを「菩薩行」と呼んだ。仏へのみち。

 「菩薩の精神をもって、証言台に上がるから、答えに窮することはないと信じていた。ある意味では、こんな始末の悪い被告はいない。」と大岡さんも書く。実際、証言の中でも仏教用語を持ち出し、天台宗の「十界」の扱いに困った通訳が、「彼は十個の魂を持っている」と訳したため、裁判委員が混乱した。


 ちなみに、裁判委員とは、現代の裁判所にいる法律家の裁判官ではなく、軍事法廷なのでアメリカの現役軍人であるため、裁判委員と訳されている。家康と光成の時代と変わらないお裁きの場なのだ。

 この十界のうち、私にも前から馴染みがあるのは六道だ。歩きにくい順に、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」の各道です。岡田司令官は、裁判においては「法戦」をたたかう自らを「修羅」と定めた。一般に、争いと戦いの世界とされる。


 いきなり、話は変わるが、映画「シン・ゴジラ」に、宮沢賢治の「春と修羅」が出てくるため、この「東北生まれの天才詩人」の宗教思想やら文学論やらと、シン・ゴジラとの関わりを、とうとうと書いてみえるサイトもある。私は娯楽作品に、そういう難解な解釈を持ち込もうとするのを好まない。

 修羅道とは先ほどのごとく、時には自らの意思で歩む戦いのみちである。それは人間と獣の間に位置する。これが、発見者の教授が選んだ道でもあり、ゴジラそのものでもあろう。なお、岡田資と宮沢賢治は、いずれも法華の信者だった。しかも先祖代々ではなく、自ら選んだ道だ。


 巣鴨のムショ仲間の一人は、死刑判決が岡田司令官だけで、彼の部下が命だけは助かったと決まったとき、岡田さんが清々しい表情で、「これで僕も名古屋の人々に少しは顔向けができる。安心した。」と語ったのを聞いた。彼には「アメリカだけが悪い」というような偏狭な考えはない。

 GHQの中では、絞首刑を避け、軍人としては名誉ある刑死となる銃殺刑とすべきだという議論が正式に出た。しかし、すでに他の死刑が先行しており、前例と合わないという小役人的な理由により、マッカーサーが拒否したらしい。彼は精神年齢が12歳ぐらいしかないのだから、仕方がない。

 判決で「絞首刑」と言い渡されたときの様子をご本人が手記に書き遺している。「宣告の瞬間、委員等の瞳が動くのを見た。傍聴席から軽いざわめきの起るのをきいた。前に腰かけた二世通訳君の緊張、速記嬢の身震いが大きい。」





(おわり)





去年のいまごろ湯河原で撮影した蛍 (これでも本物です)
(2016年6月3日撮影)





思ひ出す蛍が飛んて去年也  − 正岡子規














































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