おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

正義の観念とは合致しないこと  (第1230回)

 第31条から再開します。この先、「取り調べ」「お白洲」「監獄」に関する条項が異様に多いのは、警察国家時代の日本の特高や、ドイツのゲシュタポがやらかしたことへの反省と警告が含まれているからだろう。その劈頭にある第31条について、改正草案は「適正な」という形容詞を添えているだけで、実質に変更はないはずだ。


【現行憲法】 第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
【改正草案】 (適正手続の保障) 第三十一条 何人も、法律の定める適正な手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない。


 改正草案だけに付いている(適正手続の保障)という題目について、私も昔は手続きというと事務処理のように思っていたのだが、法律家は手続を重視すると聞いてから考えを改めました。実際、手続法というジャンルがあり、刑事と民事の訴訟法とか行政手続法とか、これらが無ければ国政の実務がきちんと進まないのだ。

 例えとしては物騒ではあるが、裁判官が死刑を宣告しても、その時その場で死刑になるわけではない。刑事訴訟法に、命令権者(法務大臣)や、期日とその例外などが定められている。ただし不思議なのは、手段だけは刑法に載っていて「しばりくび」だけが許されている。これは後に出てくる憲法の第36条(残虐な刑の禁止)に直結する規定だからだろうか。


 適正手続きという言葉を、かつて金融機関に勤めていたころ、英語の「due diligence」の訳語として使っていた記憶がある。法学では「due process of law」と呼ぶらしい。アメリカ映画でお馴染みの実例を挙げれば、わざわざパトカーの前で、黙秘権があるとか、弁護士つけていいとか、決まり文句で説明している「ミランダ警告」が典型だろう。手続きの不備があり、後に無罪になった被告のお名前。

 それにしても、本条の求めが「適正な」手続きだけではないのは明らかで、条文にもあるように「法律の定める」が不可欠である。これは十年ぐらい前に教えてもらった専門用語で、罪刑法定主義という。今の私たちにとっては当たり前すぎて、いちいち認識すらしないが、御用になるのは法律に罪状が書かれている場合に限定される。刑罰も、法律に定められた範囲内で決まる。


 罪刑法定主義という専門用語は知らなくても、その考え方・ルールを知ったのはずっと前で、今も持っている本の奥付からして、二十代後半に読んだ文庫本に出て来た。そのころアジアや太平洋の国々に出張する機会が多く、戦跡を見て勉強しなければと思い買った本の一つだ。朝日文庫の「東京裁判」。極東国際軍事裁判が正式名。

 この下巻の最後に、「関係資料」として、「インド代表 パル判事の全面反対意見」が掲載されている。パル判事の反対意見書は、英文で千二百ページを超える大長編にして難解至極であるらしい。それを要約したというこの文章ですら難解である。したがって、以下の解釈について間違いがあったら是非、教えてください。


 パル判事の問題提起は、概略以下のようなものと考える。戦争はいつから犯罪になったのか。この裁判の対象となる期間に、国による犯罪はあったのか。それを犯罪とする事後法はあり得るのか。実際に、事後法が作られたのか。個人が国際法上、戦争に関する刑事責任を負うのか。

 事後法というのが、上記の罪刑法定主義に反しかねないもので、ある行為が行われたあとで法律が作られ、それによって過去にさかのぼり、罰せられたら堪ったものではない。

 どんな悪行であろうと、それが行われた時点で罰則がなければ、法律違反ではない。無罪である(イノセントかどうかは別)。これを国際法、軍事裁判、日本の政治指導者に対する刑事訴訟(国家ではなく個人)という大変な場で、唯ひとり論じた人がいたのだ。


 パル判事の結論は、この裁判で犯罪と称せられているものは「本裁判所の管轄の範囲外」と考えるというものだった。この裁判で犯罪とされたものは、本書によると次の三種類である。
第一類: 平和に対する罪
第二類: 殺人
第三類: 通常の戦争犯罪ならびに人道に反する罪


 死罪になった被告の訴状をみると、ほとんどが第一類に含まれている共同謀議(いまの日本でも話題です)および満州事変の実行、また、第三類に含まれている「戦争法規違反」。後者はすなわち、国際法違反ということだろう。この平和と人道にかかわる犯罪というのが事後法だというのが「反対意見」である。

 同判事の主張によれば、ポツダム宣言にも、日本の降伏文書にも、これらを犯罪と見なし得る内容もなければ、この裁判所の権限を定める文言もない。つまり事後法である。後にできた国連憲章にも、個人を裁く定めはない。よって、全員、無罪。何をしたかは別問題であり、あくまで法律論。本書では、次のような表現になっている(句読点は適宜、私が入れています)。


 勝者によって「今日」あたえられた犯罪の定義に従って、いわゆる裁判を行うことは、敗戦者を即時殺戮した昔と、われわれの時代との間に横たわるところの、数世紀にわたる文明を抹殺するものである。かようにして定められた法律に照らしておこなわれる裁判は、復讐の欲求を満たすために、法律的手続きを踏んでいるようなふりをしているものにほかならない。それは、いやしくも正義の観念とは全然合致しないものである。

 
 パル判事の反対意見は抹殺された。むしろ、これを日本のイデオローグが好んで恣意的に解釈し、悪用する傾向にあるから注意が必要だ。逆に彼の専門性や経歴をとりあげて、軽視する者も同様である。憲法第31条は、パール判事の有罪無罪の結論とは直接関係がない。罪刑法定主義と適正手続の根幹に関わることを、判事と憲法は伝えている。

 なお、未だに私は憲法の第三章に出てくる「権利」と「自由」の違いがよくわからないでいる。ともあれ、この第31条をながめていると、権利とは義務と同類の文脈において使われる法律用語のようであり、一方、自由とは生命と並び称されるものである。

 いまの日本国民は権利の主張ばかりするから社会が乱れると決めつけている或る種の改憲論者は、権利と義務を語るのがお好きなようだが、実際にやろうとしていることは、私から自由を奪おうとしているように感じる。気のせいだったら嬉しい。今日は建国記念の日だ。いい国にしよう。




(おわり)






B29が原爆を搭載した作業場の跡。手前が長崎、奥が広島。
(2017年1月15日、テニアン島にて撮影)














































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