焼夷弾  (第1204回)

昨日(2019年8月14日)は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にお参りしました。毎年夏の恒例の行事です。先週末は研修など多忙で身動きが取れなかったのですが、個人事業はこういうとき、ある程度は自由が利きます。

私は父方の伯父を戦死で喪っている。自分は戦後生まれなので、生前から知り合いで残された家族でもないのに、遺族というべきなのかどうか迷うのですが、狭義の子孫とも名乗れないし、伯父が戦死せずに父方の実家(家業と家屋)を継いでいたら私は生まれてこなかったので、広くとって遺族と名乗っています。


伯父以外にも、母方の親戚が三名ほど戦死しているそうで(母の記憶)、また、父方の祖父が経営していた木工所の大工さん達も、全員が兵隊にとられ、生還したのは一人だけ。それに父方も母方も、自宅と仕事場の両方が静岡の空襲で全焼してしまい、死者が出なかったのは幸いでしたが、戦前戦中のものは、何一つ残っていない。

このため、伯父の顔も知らず、母方の親戚たちも祖父の働き手たちも、手間暇かけて調べればわかるかもしれませんが、氏名も知らない。こうなると、伯父は実家の墓に骨壺だけ(遺骨は無くて石ころ一つが入っているだけ)はありますが、他の親戚は宗教も分からず、千鳥ヶ淵はこの点、宗教宗派を問いませんので、東京にいる8月はここに参ります。


もう一つ、伯父が戦死した場所は戸籍によると「マリヤナ」、陸軍の諸資料によると「マリヤナ」または「テニアン」となっており、海没の可能性もありますが、取りあえずテニアンで戦死という実家の言い伝え通り信じています。テニアン島が陥落したのは、1944年の8月初旬。やはりこの季節。だがこのあと一年も戦争が続いたのは何故だ。

このテニアンサイパンでは、第一次世界大戦のあとから日本領だったこともあって(隣のグアムは違う)、周知のとおり日本人が万単位で大勢、住んでみえました。彼らもほどんと全滅です。この点も千鳥ヶ淵の墓苑は、引き取り手のない遺骨ですから、民間人も分け隔てなく慰霊しており、私はやはりここに行くべきなのです。

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最近は滅多にテレビを観ない。ニュースと、映画・スポーツぐらいです。ドラマやバラエティを観ないから、現役の芸人や役者の話題になると、当方の情報が古すぎて付いていけません。しかたない。

先日は、録画しておいた「この世界の片隅に」を観ました。あの一家も、石ころだけの骨壺を受け取っていました。すずは、幼女を反対側の手でつないでいたら、と悔やんでいる。これも、仕方がない。緊急時は誰だって利き手を使う。このため、彼女は得意の画が描けなくなってしまった。


その録画が終わってチャンネルを地上波に戻したとき、NHKのファミリー・ヒストリーが始まった。当日は仲代達矢。現役の役者ですが、彼なら付いていける話題です。この番組は初めてでしたが、そのまま観ました。

一番強く印象に残っているのは、彼が東京で空襲に遭ったときの話です。仲代達矢は、私の父の一歳年上で、いわば軍国主義の教育を存分に受けた最後の世代です。このとき高一で、疎開先から戻っていた場所で空襲を受けた。


周りが火の海になり、逃げようとした時、五歳ぐらいの子が一人で立っているのが見えた。一緒に逃げようと手を引いたら、付いてきたのは手首だけだった。これだけでも衝撃ですが、仲代の地獄はそのあと始まる。彼は逃げるに精いっぱいで、手首を捨てて逃げた。

お墓も作ってやれずに自分だけ逃げたことを、彼は最近まで誰にも話せなかったらしい。こういう体験が無数にあり、しかし私たちの耳には、なかなか届きません。原爆や沖縄戦のように、私が子供のころから世界的に注目を受けた悲惨な戦いは多くの証言を集めていますが、どこにでもあったような空襲や戦闘はそうもいかない。


実際、これで約三年ほどになりますが、伯父の戦死の情報を、手を変え品を変えて探しているのですが、お役所に残っている戸籍と軍関係の履歴書的な資料以外、なに一つ分からない。いつどこで、どのように戦死したのか不明のままですから、法的にはともかく、実態上は行方不明です。そういう戦争だった。

B29は各種の爆弾を落としたようですが、記録映像に出てくるのは、あのマッチ箱をひっくり返したような、細長い金属の棒状爆弾をバラバラと振りまくタイプが、良く知られていると思います。片方の先っぽにある信管が重いので、パイプは縦になって落ちてゆき、地面に接触して爆発炎上する。

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昨日、千鳥ヶ淵にて


中学校のとき、なぜか一度だけ、英語の先生が静岡の空襲(複数回ありますが、そのどれかは知らない)の話をしたことがあります。彼は空襲が続く火の海の中を逃げた。そのとき、目の前を走って逃げている大人の女性の肩あたりに、その棒状の焼夷弾が落ちてきて「グサッ」と突き刺さった。

さすがに中学生相手に、「グサッ」と突き刺さったあとのことは話せなかったらしい。もうこの先生もご高齢で亡くなりました。物理の先生は、まだ子供だったころ、米軍の戦闘機に追い回され、田畑の中を転げ回って逃げた。最後に戦闘機は前方で反転し、超低空で少年の頭上を越えて行くとき、パイロットがにっこり笑ったのが見えた。遊ばれたらしい。


別の先生の中に、噂ではインパール作戦からの生還者がいるということで、私たちは彼のことを「インパール」と呼んで畏れた。子供心にも、インパールの戦いの惨状は知らなかったが、何か特別の体験があったことは分かるのだ。まだ、そういう時代だった。

念のため級友が他の先生に、本当にインパール帰りなのかと訊いたところ、疑うな馬鹿という有難い返事があり、しかし、インパールはついにインパールについて語らなかった。聞きたかったなと思う反面、聞いたらどうなっていたかと不安になる。そんなことを思い出す日が、今年も来ました。




(おわり)



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千鳥ヶ淵遠望  (2019年8月14日撮影)






 イエスさえ、お前の所業は許さない

    「戦争の親玉」 ボブ・ディラン











































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