あともう一回、岸本英夫氏著「死を見つめる心」についての記事を書きます。著者の原発ガンは、詳しい検査を受けても、なかなか見つかりませんでした。それは髪の毛に隠された位置にある皮膚(ほくろ)だったそうです。
この闘病記は、1960年代から70年代にかけての半世紀前のものなので、あまり医学的な内容(自覚症状や検査や手術や服薬など)を詳しく引用しても、現代とでは様相が異なりますので、これ以上は控えます。それよりも著者の心境に焦点を当てましょう。これは医学の進歩とは別の話です。
今回の標題「わが生死観」は、本書の最初の章です。そして、著者と大学の同級生で同じく宗教学者となった増谷文雄氏が本書に寄せている「序にかえて」という前書きによると、著者の葬送にあたり、この章が冊子として会葬者に配布されたそうです。本書の根幹です。
この章は「人間の生死観を語るにあたり、二つの立場がある」と始まります。第一の立場はいかにも宗教学者らしいものですが、「自分自身にとっての問題はしばらく別として、人間一般の死の問題」を考える立場。「いわば、一般的かつ観念的な生死観」。学術では宗教学、哲学の領域。
もう一つの立場は、「もっと切実な緊迫した」もので、「自分自身の心が、生命飢餓状態におかれている場合」。すなわち小康状態を得た時にこれを書いている著者自身の立場です。生命飢餓状態と名付けたものは、次のように定められています。
人間が生命飢餓状態に陥るのは、戦場に赴くとか、病気になるとか、自分の生存を続けてゆく見通しが断ち切られた場合に限る。それも目前の近い将来に限る。
もう少し具体的な例として、生存の見通しが絶望になるケース、例えば「特攻隊員」や「死刑囚」を挙げています。ところで、現状これに該当していない私のような者、すなわち現時点で生存の見通しが絶望ではないのに、少しづつ、だが着実に衰えてゆく高齢者は、立場がありません。
これは著者にたてついているわけではなく、幸いなことに生まれてから現時点まで、戦争や革命や刑務所や不治の病に関わりもなく、平凡に長いこと生きてきた人間が、そろそろ生死について考えざるを得ないような心身の状況に置かれたときはどうするのか。
それが分かれば、このブログ(このカテゴリー)を書き続けることはないだろうと思います。きっと毎日、悩み続けます。著者は、発病するまで、科学の時代の学者として、死後の世界というものを全く信じていなかったそうです。
そして生命飢餓状態に突然陥ったとき、自分は宗教に頼るだろうかどうかと考えたそうですが、結局、やはり天国も極楽も輪廻転生も縁がなかったようで、私と同じく、脳を含む肉体が滅ぶときは、自分という意識も終わるという結論を出します。
そうなると、生が終わるまで、どうよく生きるかという最初に出てきた問題に立ち返ることになります。神頼みができないのなら、これは個々人で考え、個々人が行動に移さなければなりません。この課題は、前掲多田書も同様でした。
現在行われている政治や戦争や犯罪に、宗教がややこしく絡みついているのは周知のとおりです。そういうのを嫌らしく感じるせいか、私はずっと無宗教ですし、これからも変わりありますまい。怪しげなカルトに頼らないように警戒しなければなりません。
(おわり)

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