おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

何が最後の希望よ  (第1025回)

 映画の第2章には、「最後の希望」というタイトルが付けられている。どうやらこの映画では、最後の希望をカンナ一人に絞ったようだが、漫画ではユキジとセットで二人である。オッチョがそう云っているのだから間違いない。

 時は世紀末の大みそかで、場所は友民党本部の前。バイクで先に着いたオッチョに、後から車でモンちゃんとユキジが追い付いた。その車中で運転中のモンちゃん曰はく、「オッチョはオッチョで、なんでも自分一人でできると思ってやがる」と的確に言い表している。


 合流した途端に、その話の続きでユキジは「あんた、何ひとりでムチャしようとしているの?」とオッチョを叱りつけるのだが、相手もさるもの、「ユキジは帰れ」とそっけない。もう一つ、「おまえはカンナを守れ」と言われて、同じことをケンヂにも言われていたことを思い出したか、ユキジもちょっとたじろいだ。

 オッチョの用件は、「俺達に何かあっても、次の時代へつなげ。おまえとカンナは、最後の希望だ。」というものであった。「何が最後の希望よ」とユキジは怒鳴り返しているのだが、単に断ったのではなくて、そのあと私たちは負けない、負ける気がしないと言っているところをみると、「俺達」に自分が入っていないことや、「何かあっても」という前提がお気に召さないのだ。


 次の時代へ何をつないでほしいのか、一番肝心なことが伏字になっているのだが、おいおい考えるとして、映画では第2章の冒頭に、短いカットが三つ並んでいる。一つ目が、秘密基地に侵入した二人の少年が出くわすシーン(漫画では第10集と第16集)。次が海ほたる刑務所で13番と3番が久しぶりの面会(漫画では第6集)。海ほたるが好きだな、この映画は。またも夜なので、蛍の光

 最初の場面は、1969年という字幕が入っている。連載途中や終了直後の本作関連サイトを眺めていると、やはりこの西暦が問題視されている。サダキヨがフクベエのクラスに転入してきたのも、転出していったのも1970年の五年生一学期であることは、本人がモンちゃんにそう言っているし、ほかにも状況証拠が幾つもあるから間違いなし。


 さらに、第10集ではサダキヨ先生がコイズミに、この秘密基地で”ともだち”と会話を交わした過去を伝えた直後に、「夏休みが終わる前に、僕はまた転校することになった」と言っているので、同じ夏の出来事のように思える。このためネットでは1年、違っているのではないかという指摘が多い。だが、それでは困ると、ずっと前に書いた。フクベエ少年は、ここで初めて「よげんの書」を読んだのは明らかだ。

 そのあと山根に伝え、しんよげんの書を作り(映画では既にこの場面で完成品が出てくる)、その顛末を山根がオッチョに話したのは、4年生の1969年のはずなのだ。山根とオッチョの会話の内容、まだ幼さの残る二人の顔だち。多分この年に書き終えた「よげんの書」は、秘密基地が冬の到来とともに枯れてしまったので、せんべいの箱に格納されて遠藤家の庭に埋められたのだろう。


 1970年の基地では、万博の話題しか出てきていない。71年の解散式では、すでにケンヂが「よげん」という言葉すら忘れている。そして第10集にも第16集にも、お面を外して素顔になったサダキヨに、フクベエが「ふーん、そんな顔してんだ」と語っている箇所がある。これは同級生に言う言葉ではなかろう。サダキヨは教室ではお面をつけていないのだから。

 こじつけめいているが、1969年において両者は既に近所だったので遊んだり、うろついたりする場所も近く、顔見知りだったとしておくほかあるまい。山根はサダキヨとの交流がほとんど無かったようで、”ともだち”は理科室で生まれたと語っていたが、実際はその忌まわしき精神が生まれたのは1969年の秘密基地である。


 悪事の発端は、神様が原っぱを囲い込んで子供たちを追い出したからではない。オッチョがカツオに語っていた通り、秘密基地の仲間が作り出したのだ。次の時代へつないでほしいことが、この負の遺産相続だとしたら、カンナもえらいものを背負い込まされたものだ。責任上、オッチョもずっと苦労を重ねることになる。第2集はそういう展開になる。だから主役も豊川さん。

 プリンセス・レイアは、オビワン・ケノービにコンビニ・ロボットのR2D2を使って、「You're my only hope.」とホロ姿で救けを求めた。こちらも、頼まれたほうはそろって大変な目に遭う。しかも、悪が意外と身近な存在であったことも似ている。


 最後に、漫画でフクベエが落ちる際、「サダキヨじゃない」と言っていた理由が分からなかったのだが、あまり難しく考えることではないのかもしれない。直前の会話で再び、”ともだち”がサダキヨだとケンヂに言い聞かせたばかりだ。直後に塔の上でお面を外して、別の顔が出できたらケンヂは混乱してしまう。あのつぶやきはきっと、リセット・ボタンだ。

 あそこで素顔を見せたら、ケンヂが生き残ったとき、ややこしいことになろう。はやり漫画のフクベエは、ケンヂが死のうと生き残ろうと構わなかったのでは。もう「よげんの書」をマネした自作自演も終わりつつあり、これからは「しんよげんの書」の出番なのだ。生き残って騒いだら、口封じするつもりだったな、さては。映画では事情が異なる。逆にケンヂには生き残ってもらわないと困る。彼はまだ「フクベエ」だと信じたままだ。より重要な「私は誰でしょう」の遊びが、完結していないのである。




(この稿おわり)





新宿センタービル(中央の茶色っぽい建物)。
その手前にある丸っこい外見のビルは、21世紀に入って建てられた。
したがって、2000年にケンヂが先ず屋上に立った西口のセンタービルは、駅や靖国通り方面を見渡すのに最適な立地と高さがあった。
なお、このビル前の通りは商社マン時代のオッチョや、勤め人時代の私が歩いている。 
(2016年5月23日撮影)






近くの花壇  (2016年5月10日撮影)








 Auld Lang Syne:
 The best known Scottish song,
 sung all around the world at Hogmanay.

 イギリス政府のサイトより。
 ”Auld Lang Syne”は最も名高いスコットランドの歌。
 世界中で、大みそかに唄われる。

 日本語版の題名は「蛍の光」。
 卒業式と閉店時に唄われる。

















これが火星... (2016年6月2日撮影)


















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