おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

1970年の嘘 再考      (20世紀少年 祝・第500回)

 みなさま、昨夜の映画はご覧になりましたか。私はひどい風邪を引いていて最後のほうはぐったり。録画したので、体調が回復したら改めて観ます。映画の感想は別途書くつもりなので、今回は映画化されたこと自体の感想みたいなものだけ並べます。

 ・ 細部がかなり異なる。なかなか勇気が要ると思う。
 ・ 子供が大勢、出てくる映画は楽しい。
 ・ さすが、巨大ロボットは映像にすると迫力が違う。
 ・ やっぱり映画館で観たかった...。
 ・ 何はともあれ、好きなマンガが映画になるというのは幸せである。



 さて、第16集に戻ります。せっかく作って派手に飾ったテルテル坊主だったが、肝試しの御一行をほんの一瞬、驚かせただけで大笑いされてしまった。しかもフクベエにとっては仮に他の誰かが驚こうと、ケンヂが逃げ回らないのでは失敗である。この爆笑のシーンは第8集のほうが少し詳しい。

 コンチやモンちゃんが本当におかしがっているのとくらべて、ケンヂとオッチョがお付き合いで笑っているのが絵で分かる。このため、オッチョは気付いたのだ。ケンヂも何かを見たことを。「俺達はちょっと上を見てくる。な、ケンヂ」とオッチョは言った。「もう何も出やしないぞ」とモンちゃんは言ったが、ケンヂは「せっかく来たからな」と田舎のおばさんのようなことを言った。


 他の少年たちはみな帰ってしまったが、フクベエはそれどころではない。サダキヨが見つかる、あいつがみんな喋っちまうと早速、保身に走り、オッチョとケンヂのあとを追って2階に上がっていく。二人が、テルテル坊主のうしろを何かがすっと横切ったと話しているのを聞いて、彼はサダキヨが見つかったんだと考えている。これは、もしかしたら正しいかもしれない。

 サダキヨは2階の暗い部屋の中で、体育座りをしてふさぎ込んでいた。彼がテルテル坊主を動かす任務を放棄した理由は明らかにされていない。ひたすら謝るばかりである。サダキヨは上ばきを履いている。土足では失礼と思ったのか、第8集でヨシツネが「推理」していたように、親にばれないように上履きで窓から抜け出してきたのか分からない。

 失敗と他責で怒りのフクベエは、サダキヨをテルテル坊主の背中側まで引きずって行った。これは中途半端な位置であり、ケンヂとオッチョが戻ってきたら丸見えなのだが、結果的にはこれで良かった。階段下まで様子を窺いにきたヨシツネに顔を見られずに済んだ。


 ここから先のフクベエとサダキヨの会話の不自然さ(正確には、第8集と第16集の違い)については、第8集で話題にしたものの収拾がつかず、未だに整理できないでいる。ここでもう一度、1970年の嘘とは何なのか考えてみる。まず、西暦が一年異なり現実は1970年、ヴァーチャル・アトラクション(VA)は1971年の設定になっている。

 これは、”ともだち”が夏休み中ずっと大阪万博に行ったことになっていて、そうすると首吊り坂の事件に遭遇したとなると辻褄が合わなくなるので、新聞の日付をごまかしたと理解してきた。もっとも、この小細工は万丈目にも高須にも御見通しである上に、ユキジとヨシツネも設定が不自然であることに気付いたほどの出来の悪さであった。


 別の嘘は、翌29日にコイズミとヨシツネが小学校の屋上で会った、二人のお面をかぶった少年である。コイズミとヨシツネは、ナショナルキッドがサダキヨで、忍者ハットリくんが”ともだち”だと考えている。だが、この二人は、確かにそのような語り方をしているが、自分たちでそう名乗ったわけではない。実際、忍者ハットリくんのお面の下は、大人のサダキヨの顔だったのだから、これも嘘である。

 では、ナショナルキッドの方はどうか。なんでもありのVAなのだから、こちらもお面を外せば少年の顔のサダキヨだったとしても不思議ではない。だが、第9集の屋上のナショナルキッドの言い分、言い方は、単なる私の印象であるがサダキヨ的ではない。但し、この少年は”ともだち”から言われてシーツを家から持ってきたとは言っている。


 問題はテルテル坊主の影に隠れての会話の始まり方だった。第16集の現実のサダキヨは、フクベエに「お前のせいだがらな」と責められて「ごめんよ」と平謝りである。しかし、第8集のVAに出てくる上ばきの少年は「おまえ、なんでこんなことしたんだよ」とフクベエらしき相手に言っている。それ以降も、ほぼ対等の言い争いになっている。

 第8集と第16集では、他の肝試しの少年たちの言動は、ほとんど同じに描かれている。片方にしか出てこない会話などがあるが、共通して出てくる言動は全く同じでありこの点でVAはフクベエとサダキヨ以外は、忠実に過去を再現している様子である。この二人だけ、特にフクベエではないほうの少年が、なぜこんなに違うのか。


 答えは出ません。ただし、すでに私たちはナショナルキッドのお面の少年が同時期に同じ場所に存在していたことを知っている。そのうち一人はサダキヨで、気が小さくて殆ど全くフクベエに言い返せない子供であった。そして、もう一人は、これから徐々にその登場場面を増やすが、けっこう、フクベエや山根に言いたいことを言う性格のようだ。

 そうであるならば、VA内でナショナルキッドのお面をかぶり、現実にはサダキヨが担った役割を、この別の少年が代行しているという可能性はあるか。だが、何故? フクベエが日付を1年ごまかした理由も分からないではないし、忍者ハットリくんのお面の下がサダキヨ先生の顔だったのは、フクベエが”ともだち”の正体をサダキヨだとケンヂに思いこませようと何度か工作をしたことからも、納得できないではない。


 しかし、この階段上での会話内容の違いは、意図的な嘘だとしたら(どうみても、そうだろう)、その目的は何か。少なくとも、フクベエにとって何のメリットがある? 

 あるいは、もう一人の”ともだち”には、メリットがあるか? 謎だらけである。今日はタイトルに「再考」などと恰好つけて書いたものの、再び迷子になって終わらざるを得ない。近日中に自分なりの答えを出して書きます。



 ほかの読者は気にならないのかなあ。私はもう一つ、気になっていることがある。第7集の血の大みそか、ケンヂの目の前でビルの上から飛び降りてみせたフクベエが、別の男と共に落ちるときにつぶやいた一言、「サダキヨ....じゃない」。

 あれは誰か。また、誰であるかに拘らず、フクベエは本当に驚いたのか、それとも驚いて見せたのか。いつの日か、もつれた糸がほどけますように。「二人の少年」の会話の違いについて、もう少し整理したい。しつこいのです。



(この稿おわり)




新品の東京駅 (2012年10月1日撮影)





































































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