おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

パンドラの箱  (第1026回)

 二十代の前半だったか、仲間内で「さかさパンドラ」という造語が使われたことがある。希望だけが出て行ってしまったという我が身の悲惨な境遇を嘆きつつ、笑いを取るという難易度の高い技であった。それが通用するほどに、パンドラの箱は知られていた。子供のころ読んだ覚えがあるギリシャ神話の一つだが、今でも子供向けの雑誌や教科書に出てくるのだろうか。

 オッチョの「最後の希望」という言葉をきくと、思い出すのがこのパンドラのエピソードである。浦島太郎と同様、好奇心で開けてしまったようだが、浦島の場合、自業自得で済んだものの、パンドラは全世界に災いをばら撒いたのだから罪が重い。しかも希望だけ出し忘れた、と小さいころの私は悲観的に読んだ。


 映画第2章のプロローグの二つ目は、13番が3番に挨拶に行くシーンで、コミックスの第6集にも出てくる。映画の13番は意外と愛想が良くて、「元気か」と声をかけている。3番は両腕をチェインで縛られており、その伸び放題の髪の毛などの外見とあいまって、まるで十字架にかけられているかのようだ。後に実際、教会に乱入のうえ、これと同じ姿で最後の希望を守っている。

 13番は「仕事で外に出る」と出張予定の連絡をしにきたのだが、オッチョの最後の希望に関係があると余計なことを言った。なぜ彼が、最後の希望の件を知っていたのか分からない。それより、このあとの「場合によっては神の子といえど...」がオッチョを怒らせた。彼も外勤を急ぐことになる。


 ところで、「場合によっては」というのは、どういう意味か。少なくとも、始めから救世主がカンナで、彼女の暗殺が出張目的だと明確に聞かされていたのであれば、場合によってはとは言うまい。実際、結果からすると、かなり成り行き任せの仕事である。とにもかくにも、発注者にとっては「しんよげんの書」的になればご満足なのだろう。もしくは、知りすぎた警官の口封じか...。

 かつて個人的な恨みもないのに太宰治のことを悪く書いたので、何となく後味が悪い。償いという程のものでもないが、彼の小説「パンドラの匣」を、一部引用して話題にします。いつもながら、青空文庫さん、大変お世話になります。ルビは省略。


 しかし、君、誤解してはいけない。僕は決して、絶望の末の虚無みたいなものになっているわけではない。船の出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらの幽かな期待を感じさせるものだ。それは大昔から変りのない人間性の一つだ。君はギリシャ神話のパンドラの匣という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪など、あらゆる不吉の虫が這い出し、空を覆ってぶんぶん飛び廻まわり、それ以来、人間は永遠に不幸に悶えなければならなくなったが、しかし、その匣の隅に、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。

 それはもう大昔からきまっているのだ。人間には絶望という事はあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。正直に言う事にしよう。人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもうパンドラの匣以来、オリムポスの神々に依っても規定せられている事実だ。楽観論やら悲観論やら、肩をそびやかして何やら演説して、ことさらに気勢を示している人たちを岸に残して、僕たちの新時代の船は、一足おさきにするすると進んで行く。何の渋滞も無いのだ。それはまるで植物の蔓が延びるみたいに、意識を超越した天然の向日性に似ている。


 どうやら、子供のころの私より、晩年の太宰先生のほうが、パンドラの読み方が楽観的である。これによると、希望は小石に書かれた字であったらしい。後半のゼツボウ論は、オッチョの意見も聞きたいところだな。この小説は戦争中に書かれ、戦後に連載・出版された。次の時代へ向けて、終わり方は良い。

 最後に余談。先般、別々に話題にしたギリシャ神話のハープと、ロック・バンドのスティクスについて。竪琴の名手オルフェウスは、我が国のイザナギ神と実によく似た人間的な失敗をする。黄泉の国まで先立った奥様を迎えに行くのだが、約束を守れず振り向いて見てしまうのだ。

 オルフェウスの最期は、気の毒なことに殺されてしまう。彼の竪琴はかつてアキレウスが産湯を使った黄泉の国の川に流された。この川の名が、英語でスティクス。「ボート・オン・ザ・リバー」もこの川だろうか。船賃は六文銭だろうか。



(この稿おわり)






近所の児童公園。何に見えますか...。
(2016年5月4日撮影)





小石川の撫子
(2016年5月2日撮影)







 古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう
 古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう
 なぜなら古い船も新しい船のように新しい海へ出る
 古い水夫は知っているのさ 新しい海の怖さを

    よしだたくろう 「イメージの詩」
















































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