おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

予知夢とタイムマシン (20世紀少年 第527回)

 神様はちょっと自信をなくしているようにもみえる。「俺が見る夢、人は予知夢なんていうが、くだらん夢ばかりだ。ところが近頃はその夢もとんと見なくなった。俺がボケてきたのか。予知しようにも、その先が何もないのか。そろそろ地球も終わりなのか...」と、どことなく弱気である。

 予知夢とタイム・トラベルとは違うのだが、まずはタイム・マシンの話から始めようかな。すでに何か月か前にもここで書いたように、私はタイム・トラベルなんかできるはずがないと思っている。過去という時間の存在は否定しません。自分にも小学生時代があったことや、昨日は仕事をして酒を飲んだ過去があったことなどを、全身全霊で覚えている。


 しかし「過去という時間」と「過去にあった空間」は別のもの。「過去にあった空間」がなければタイム・トラベルはできないはずだが、私が小学生だった時代の町並みや、小学生の私や友達がどこかに存在しているとは、とうてい思えない。逆方向の未来についても同じである。

 ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言った。お釈迦様は諸行無常を教え、鴨長明によると行く川の流れは絶えずして、しかも元の水に還らずである。小学生の私は今や無残にも変わってしまい、当時の街並みも変貌して殆ど全てが消えている。未来はもっと頼りない。過去は体験的に確かにあったことを実感しているが、未来があるかどうか、私たちは誰も知らない。そう信仰しているだけだ。


 だが、過去や未来に行くという話はよほど人の夢をかきたてたり怖がらせたりするらしく、フィクションの世界ではタイム・マシンの話題や、いきなり過去に飛ばされるといった事故が絶えない。事故なら仕方がないが、タイム・マシンが仮にできたとして過去には行けるのか?

 これを物理学的に議論するのがタイム・パラドックスだが、私は興味がないので別の方向に進みます。過去に行く行為は法的、倫理的に許されるはずがない。人類が滅亡するおそれが常についてまわるからだ。例えば唯一度、過去に行けるとしたら、私はジュラ紀白亜紀の時代に行って恐竜を見せてほしいとタイム・マシンにお願いすると思う。


 その時間旅行の最中、私が恐竜に見とれているうちに、小さなネズミのような動物を間違って踏み殺してしまうかもしれない。そのネズミ小僧があいにく全人類の共通の先祖だったら、その瞬間に歴史は変わり、人類のいない地球が未来にわたって実現する。

 それはそれで良いじゃないかという意見も出そうだが、ともあれ、それに伴い過去に旅行中の私もタイム・マシンも瞬時に消滅するのでは困る。これは極端な例だが、誰かが過去に行けば過去が変わるので、それに関連する事物が全部、その後も全部変わる。


 知らない誰かのタイム・トラベルの結果、いきなり私の生活が変わり、大事な誰かがいなくなり、そしておそらく、それに気づかない。そんなことが、いつ起こるか分からない人生を送るか、それとも過去への旅行を禁ずるか、結論は自明であろう。

 では、未来に行くのは良いのか。未来にいったままなら、まだましかもしれないが、少なくとも出発時点では、多くの人は戻って来たいと思っているだろう。もしも私が未来に行けるとしたら、今なら12月の有馬記念の結果を確認して現在に戻り、当日、大金をもって勝ち馬に乗り、億万長者を目指すであろう。


 でも、過去に行ったのと似たような変化が起きる。現在に戻ってから有馬記念の出走の瞬間まで、おそらく大金持ちになるという幸運に私は有頂天になっているだろうから、はしゃいで歩いているうちに車にひかれて、あの世に行く恐れがある。あるいは、つい結果を喋ってしまって噂になり、騎手たちの知るところとなって、レースの展開が変わってしまうかもしれない。
 
 ここでも過去と同様、知らない誰かが未来に行って戻ったがために、私の人生がいきなり変わる可能性がある。競馬がその典型だが、たいてい、その人が得になる方向に自分の人生を変えようとするだろうから、その分だけ私が損をするおそれが大きい。やっぱり、そんな世界は嫌だ。だから、タイム・マシンは完成しても、過去にも未来にも行くべきではない。


 正確な予知夢をみるとしたら、未来に行って帰ってきたのと同じような効果があるかもしれない。ただしタイム・マシンとは異なり、夢である以上その夢が正確な未来なのかどうかが分からないという致命的な欠点があるのだが、本人が違いないと信じればタイムマシンの場合と同じような行動をとるだろう。

 神様の場合、1997年に「2000年の大みそかに人類が滅亡する」という夢をみた。しかし結局、人類は滅亡しなかった。では、神様の夢は本人のいうとおり「くだらん夢ばかり」なのか。しかしこのころ神様は別の夢もみており、それによるとケンヂ(あの、うだつのあがらない兄ちゃん)が、地球を救うために立ち上がるはずであった。


 こう考えることだってできる。神様はこの二つの夢を考えあわせてみて、何とかしようと判断する。そこで、ドンキーを突き落してきた男をケンヂに引き合わせたり、キングマートが放火された夜、ケンヂに「レザーぢゅう」を手渡しながら、投げてみなけりゃストライクはとれないと言って決起を促したりした。そのあと地下の暮らしに慣れない遠藤一家を支援し続けた。こうして歴史が修正され、2000年、人類は滅亡せずに済んだ...。

 他方で第12集では、おそらく神様とカンナが同時に同じ内容の夢をみており、そこでは西暦の終わる2015年にも巨大ロボットが出現することになっている。先のケンヂの例と違って、この夢をみた二人のその後の行動が、どういうふうに世の中を変えたのかよく分からないのだが、結果的に2015年には巨大ロボットは出てこなかった。


 こんな壮大な夢ではなくても、われわれにだって夢の知らせなどというものがある。それが正確な予知かどうか知るべくもないが、気になって忘れられないならば、きっと今後の人生に影響を与えずにおくまい。実際、私たちは夢の中でも、意識の中でも無意識であっても、自分の過去や未来の身の上を考えながら、頻繁にタイム・トラベルのようなことをやっては判断の基準にしている。

 神様は予知夢だけではなく、起きている間でも何だか知らないが分かってしまうという特技もある。今後もこれらは出てくるし、いつの日か、オッチョがそれらに賭ける日もくる。どちらの能力も神様を苦しめることが多いのだが、ボウリングブームが到来するまでは我慢してもらわないとならない。でも、大丈夫。神様は強い。転がる石のように生きていける人だ。

 

(この稿おわり)




柿の実。今年は柿が豊作とかで、昨日ご相伴にあずかりました。 (2012年10月20日撮影)




刈取りのあと (同日撮影。実家のそばにて)







  How does it feel?
  How does it feel?
  to be without a home,
  like a complete unknown,
  like a rolling stone?
 
     "Like a Rolling Stone" by Bob Dylan



  どんな気持ちだ?
  どんな気持ちだ?
  住む家もなく、人知れず、
  転がり落ちる石のような暮らしは?
 



































































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