おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

公益及び公の秩序  (第1351回)

 
 今回は第21条。前回、私は無意識に「言論の自由」と書いたのだが、以下のとおり、この条文で定めている事柄の総体を表す概念は、よく耳にする言論の自由だけではなくて、正確には「表現の自由」だ。この条項も、複数回の勉強を要することになろう。では、いつものように両者を並べる。


 【現行憲法

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
二 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。


 【改正草案】

表現の自由
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
二 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
三 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。


 前回も言及したように、最大与党内では、この改正草案を改正しようという動きがあるらしい。ある意味で、もう手遅れである。どういう変更案が出ようと、今の改正草案のほうがたぶん本音だと、賛成者も反対者も思うだろう。このネット社会においては、半永久的にデジタル・データで残るし、比較表を載せた本も出ているだろうから、お膝元の国立国会図書館が大事に保管してくれる。

 なお、申し遅れましたが、この憲法と改正草案の条文は、いちいちタイプアップしていると大変だし、誤字脱字などの間違いがあるといけないので、「自民党 日本国憲法改正草案対照表 2012版」という横書きのサイトをコピー&ペイストさせていただいている。いつもお世話になります。便利なだけでなく、改正草案のコメントについては比較的、私の発想に近いので、読んでいて不愉快にならないのも有難い。 【追記】今では削除されている。
http://www.geocities.jp/le_grand_concierge2/_geo_contents_/JaakuAmerika2/Jiminkenpo2012.htm


 前掲のとおりで、第21条のうち改正草案の第1項と第3項は、文中の「これを」が外してあるだけで、今の憲法の第1項・第2項から他の変更はない。したがって検討材料は、追加された第2項だけである。これがまた怪しい。ここでもまた、「公益及び公の秩序」が出てくる。

 しかも、これまでの条文では、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に丁寧に置き換えているのだが、ここでは新規であるから、よほど力が入っている。少し立ち止まって、この言葉について考えてみる。後日また取り上げるが、手がかりは第29条にあると思う。フランス革命でお馴染みの「私有財産権」の規定である。


 第29条第2項は、現行の憲法に「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」とある。一方、改正草案は例によって「財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。」(後略)となっている。置き換えをした他の条項と異なり、続きが「適合するように法律で定める。」となっている。憲法ではなくて、法律で決める。

 現行の「公共の福祉」は、以前みたように民法第1条において、「私権は、公共の福祉に適合しなければならない。」とあった。ちなみに、刑事訴訟法という、ちょっと怖い名前の法律も、その第1条に「この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。」とある。


 共通点は、いずれも第1条という重要な場所に出てくる点と、それなのに「公共の福祉」定義が書かれていない(とにかく私の目には見えない)点にある。後者は、おそらく時代は変わりゆくものだという方丈記のような歴史認識を踏まえてのことだと思う。

 法律家が書く文章には、「学説も裁判例も」という表現がよく出てくる。「公共」や「福祉」のような抽象概念は、何もかもその詳細を法律で決めることは不可能だし、ある時点で仮に決めたとて後に追加変更ばかりしていることになるだろう。そのため学説と裁判例という、いわば最新の理論と実践のバランスで、その時々の判断をしているのだ。健全だと思う。

 民法刑事訴訟法も「公共の福祉」について、学説や判決文で具体性を補ってきたはずだ。それなのに、憲法がもし「公共の福祉」を捨てて、「公益及び公の秩序」に置き換えるなら、いまの有力な学説もこれまでの判例も、全て「チャラ」だ。どうする。いまだに、天動説や進化論を全く受け付けない人たちがいるが、きっとそれらの登場時と似たような衝撃が走るのだろう。


 文中の「公益及び公の秩序を害する」という表現の意味も、新たに考えなければならなくなるが、まずは温故知新から始めると、大日本帝国憲法は同様の条文として、次のような規定を置いている。
第二十九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

 これは、治安維持法の根拠法文になったはずだ。似ているから。昭和16年真珠湾の年)に改正された同法には、冒頭こう書いてある。
第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ7年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ3年以上ノ有期懲役ニ処ス


 ネット時代では、個人でも言論や出版と同様の行為ができるが、昔は本や新聞を売り出すとなると相応の組織が必要だったはずだ。つまり、結社に限らず「表現の自由」全般について、旧憲法には、臣民が「法律ノ範囲内」において自由と有すとあり、その法律の一つに違いない治安維持法には、お上に逆らうと、現在の刑法でいえば殺人罪並みの重い刑罰が課せられていたことになる。

 つまり、「国体」は人の命ほどに重要だったらしいが、その辞書的な意味を探ると、うちの広辞苑には四つの意味が掲げられている。そのうち二つは古い漢語で、最後の一つは「国民体育大会」という平和なもの。ここで問題となる国体とは、「?主権または統治権の違いにより区別した国家体制」のことだ。


 明治憲法では、天皇が神聖にして侵すべからざる存在だったから、下手をすると上記のごとく極刑になった。共産主義は次の定めにも引っ掛かった。日本国の労働者は、団結できなかったのだ。
第十条 私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者若ハ結社ノ目的遂行ノタメニスル行為ヲ為シタル者ハ10年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 例の「国体護持」という表現が示す通り、ここでの国体とは実質的に「今の国家体制」のことだろう。革命もクーデタも「危険思想」も厳禁である。まあ「統治権」にとっては当然ちゃ当然だ。そして、「公益及び公の秩序」も、間違いなく「今の公」にとって大事なものの邪魔をするなということだ。これには誰も異論あるまい。


 最後は感情的に締めくくる。今の公を構成する人々は、特に国会や内閣において、私と同年代の五十代から七十代が人数的に大半を占めると思う。七十代である副総理A君(仮名)は、五十代・六十代が戦争を知らないと言ったそうだが、うちの八十代の母は戦争が終わったとき、まだ小学生だった。A君は戦争の何を知っているのだ。

 この初老から老人にかけての公の世代は、憲法第9項と前文のおかげで、今のところ軍事同盟国アメリカがあれほど戦闘的なのに戦争に連れていかれずに済み、憲法第三章でしっかりと権利や自由を保障されて、平穏無事に人生を送ってきた。


 その終盤にきて、後輩や子孫から、それらの命綱やセイフティ・ネットを取り上げようとするとは、どういう性根の持ち主であろう。念のため別の言葉で確認するが、改正草案の第21条第2項の新設は、治安維持が目的である。かつての法律にあった「治安」とは、刑事法的な犯罪の防止という一般的な印象よりも、権力や私有財産の護持を意味していたことを覚えておいて損はない。

 私にとっての治安は、そういう金銭的価値の高いものが自分の手元にないだけに、健康管理が第一である。最近、血圧が高いので、あまり怒らせないでほしい。本日はあまり体調が良くないため、乱筆乱文の儀、ご容赦ください。




(おわり)




ツマグロヒョウモン
(2016年10月2日、谷中にて撮影)



















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