おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

この道はいつか来た道  (第1350回)

 第20条に時間をかけている。ようやく最後の第3項にたどり着いた。これがまた追加変更が多くて、手ごわそうである。そういえば先日の報道で、この2012年の改正草案も、あまりに評判が悪いと判断したのか、一部の改編を予定しているというような記事を読んだ。部分的に2005年版に戻すという案もあるらしい。記念に今回は、第20条第3項を三つ、並べよう。


  【現行憲法

第二十条 
三  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


  【改正草案】 (2012年)

三 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。


  憲法草案】 (2005年)

三 国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。


 とにかく、例外を作りたいらしい。先に2005年の力作を話題にしよう。この案から2012年へと移るにあたり、後半の「宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。」が消えている。そろそろ、ほとぼりも冷めたと思ったのだろう。もう一度、温めて差し上げる。

 今の若い世代には違和感があるかもしれないが、かつて靖国神社への首相や国会議員の参拝は、現代のような大陸や半島との国際問題が主な論点ではなく、国内問題すわなち違憲性の議論だった。前に小欄では、内憂を外患で誤魔化そうとし始めたら危ないと書いたが、少なくとも外形的にはそういうケースである。


 上記の憲法草案ができた2005年、大阪高等裁判所で当時の小泉首相による靖国神社参拝が違憲であるという内容を含む判決が出た。最高裁に上告されておらず、これが現時点で最上位かつ最新の司法府による判断である。ただし、裁判は常にそうであるが、各論だから総理の参拝が全て違憲とは言っていない。

 この判決文は今でも国のサイトで読める。「裁判所」という名のウェブ・サイトで裁判例を検索すると出てくる。ちょっとわかり辛いのは、違憲かどうかを争ったのではなく、民法第709条の不法行為に拠る損害賠償請求の裁判だったため、「払う必要なし」という結論になっている。
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/273/002273_hanrei.pdf


 ただし、不法行為があったこと自体は認めていて、最後のほうに出てくるとおり、「被控訴人小泉による本件各参拝は、内閣総理大臣としての「職務を行うについて」なされたものであり、憲法20条3項に違反する行為であるが」、原告の権利や利益を侵害したわけではないので、被告は賠償しなくてよいという話になっている。

 この部分の少し前に、「本件各参拝は、被控訴人靖国神社の宗教を助長、促進したものである」という表現があって、これが違憲の判断根拠になっており、一目見ればわかるが早速、憲法草案はこの表現を借用して、「これはやめておこう」ということにしたのだ。


 小泉さんが、彼なりに気合を入れて、結局こういう始末を招いたのは、一つには過去における国会議員の参拝者たちが、「国およびその機関」ではないと主張するために、「私人として参拝した」という珍妙なロジックで逃げていたため、小泉首相は威勢よく公約で靖国に行くと言ってしまい、裁判史に残った。

 国会議員である以上、公人である。ある人がある時は公人で、あるときは私人であるというのを繰り返すというのはあり得ないだろうよ。収賄が好例である。国会が閉会中で酒の席だったから私人だなんて言っても誰も許すまい。私生活はあっても、公人は公人である。仕事を終えても公務員のままだからこそ、帰宅中に盗撮で捕まっても公務員の犯罪と報道される。当たり前なのだ。


 「機関」という言葉もよく論題になっていたものだ。議員は機関ではないという主張も、あったように思う。機関というと、いかにも組織(複数人数)と思いがちだ。でも、会社法は、取締役が法人の機関である規定しているし、検察庁のサイトには、検察官が機関であると書いてある。個人でも場合により機関になる。内閣総理大臣など、その典型と言ってよいと思う。

 「国は」と言っても、国が神社に参拝するわけではない。行動するのは、あくまで個人なのだから、こういう弁解はもう通用しなくなって、誰も言わなくなった。邪推すると、報道機関も外交問題にしたほうが政府も怒らないし、売れるだろう。ということで歴史認識の問題に焦点が移った。


 だが、公人が宗教施設に出入りするたびに、何が何でも違憲となってしまったら、議員さんはご先祖のお墓参りもできなくなってしまう。これは第20条の第1項と正面衝突する。信仰の自由は何人たりとも保障されているのだ。今のところは。

 先の判決文に、詳細は省くが「内閣総理大臣としての職務を行うについてなされたもの」と明記されており、要するに公人か私人かではなくて、いわば公用か私用か、公金か自費かという区別が必要になる。玉串料は「自費」と強調しないと危ない。これも裁判で、「やられた」過去があるのだ。

 こういう判断は、いつもの表現だが、ケース・バイ・ケースになる。私見では、8月15日を選んだり、議員やSPと連れ立って外勤し、記者会見に臨み、つい「不戦の誓い」などと言ってしまい、わざわざ官房長官が「玉串料は自費で」などと広報しているようでは、政治的活動とみられても仕方あるまい。


 さて、改正草案である。現行の「その機関」が、「地方自治体その他の公共団体」になっている。つまり、国とそれ以外の何かという構成になっていて、「機関」に係るややこしい議論を振り払うのに効果がある。主語は全て、団体様ご一行に統一される。

 宗教教育には、「特定の宗教のための」という限定が付いた。特定でなければ宗教教育も国の方針できる。かといって全ての宗教を教えるわけにもいかないから、実質的には複数なら良いということになるはずなので、例えば国家神道ゾロアスター教だけでも良い。


 さらに追加されている「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」というのは、一体、何事であろうか。素直に受け止めれば、社会的儀礼とは法事などであり、習俗的行為とは初詣などであろう。われら私人は、そう考える。いつも、みんな、やっているということだ。

 されど、蘘國神社に8月15日に参拝する議員団があると聞くが、この人たちにとってみれば、それも習俗的行為だと主張するのだろうな、きっと。日本の政教分離は、風前の灯であろうか。この道はいつか来た道。北原白秋物言えば唇寒し秋の風芭蕉。次稿は言論の自由だが、芭蕉翁も公共の福祉には気を付けよと言ってみえる。





(おわり)






新潟の栗、秋の味覚  (2016年9月24日撮影)

















































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