第25条のあとに、改正草案は三つの新設条項を加えております。もともとは、今の憲法だけ読むつもりで始めたのだが、どうにも政局に勉強をせかされており、改正草案もちゃんと目を通しておかなくてはいけない。まずは、現憲法の第25条を再掲する。
【現行憲法】
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
二 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
これに続けて、改正草案は三つも添加物を入れている。第25条のあとに挿入したのだから、第25条と関係あるという意思表明だろう。内容は次回以降に検討するとして、今回は主に文体や構成の話。ちょっと堅苦しい話題です。
【改正草案】
(環境保全の責務)
第二十五条の二 国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全に努めなければならない。
(在外国民の保護)
第二十五条の三 国は、国外において緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない。
(犯罪被害者等への配慮)
第二十五条の四 国は、犯罪被害者及びその家族の人権及び処遇に配慮しなければならない。
さて、上記の新規三か条草案(以下、ここでは「三か条案」と書きます)には、共通の特徴がある。いずれも、主語が「国」になっていること。また、上記のとおり「二」と「三」の文末が「努めなければならない」というふうに、法律でいう「努力義務」(ここでは以下、憲法の「努めなければならない」を、カッコつきで「努力義務」と書きます。)になっていることだ。
なぜか、「三」は「努力義務」ではない。もっとも最後の「配慮」も似たようなものだ。例えば、気を遣えばよいのである。正確には多分、気を遣ったふりをした記録を残すだけでも法的には構わない。私は構うが。
この「努めなければならない」という「努力義務」の規定は、改正草案にはたくさん出てくるが(いずれも、国の「努力義務」規定であり、国民向けには無くて単なる義務だけ)、今の憲法でも見つかった範囲では、一か所しかない。それが前掲の第25条第2項であることは前回までに触れた。
ただし、第25条は最初に第1項で、国民の権利を定め、第2項でそれに対する国の「努力義務」を置いたものだ。第25条で味を占めたか、改正草案では「三か条案」でも、「努力義務」を二連発したが、その前段に国民の権利規定がない。すでに明言しているとおり、よほど国民の権利を認めたくないらしい。
でも、この場所は、繰り返すが、「第三章 国民の権利及び義務」の領域である。すでに、新設の第21条案のところでも触れたが、国の義務を単独で置くところではない。センスが良くない。どうしても、「三か条案」の趣旨を必要とするならば、繰り返すが先ずは、第25条のごとく国民の権利を明確にしなければ駄目でしょう。
法律家は軽視するなと反論するかもしれないが、「努力義務」とは「できるだけ、がんばります」という意味に過ぎないというのが私の考えだ。先述の「前段に国民の権利規定がない」と併せて、「第25条の生存権を受けてのものだ」という起草者の返事が来そうな予感がする。なるほど、一見そうだ。だが、その場合、「努力の義務だから、がんばります」で私たちは構わないのか。
さらに、改正草案は「国は」で始まる条項も、三か条案に限らず無闇に多い感じがする。現憲法では上記の第25条と、政教分離の第20条の第3項に、「国及びその機関は」が出てくるだけなのだ。いまの憲法は、国民が制定した国民のための憲法だから当然のことだろう。改正草案の「主人公」は国なのである。
「第二十五条の三」は、邦人保護規定であり結構なお話しだが、昨今話題の「駆け付け警護」を抜きに語れないと考える。自衛隊員も国民です。現憲法下で、自衛隊員は軍人ではなく公務員であり、身分は警察・消防・海上保安庁の職員各位と変わらない。駆け付け警護だろうと、「死んでも、救けろ」とは言えませんよね。ね? まさか、それで「努力義務」?
(おわり)
実見したことがないが、諏訪地方には御柱祭という独特なお祭りがある。
(2016年10月18日、諏訪神社にて撮影)
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