おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

表現しない自由 邪魔する自由  (第1352回)

 今日は、次回に引き続いて、改正草案の第21条第2項を話題にする。血圧はまだ大丈夫で、しかも収まりがついていない。同項を再掲するが、念のため、新設の項であり、いまの憲法には無い。全く無い。
第二十一条 二 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

 第一に、文末の「認められない」という尊大な言い方は何だ。改正草案も、日本国民が憲法を制定すると前文末尾に書いてはいるので、形式上は日本国民が定めることになっているのだが、私の印象では、我が国民もここまで堕ちてはいない。これは、公益及び公の秩序を害されると困る人が、害しかねない人に宣告しているのだろう。


 拙宅から徒歩で行ける範囲内には、大通りや公園が多いし、仕事で霞が関や永田町の近辺にもよく行く。プラカードを掲げたり、シュプレヒコール(古いか)を挙げたりして行進する人々の姿を見かけることも珍しくない。

 
 あれは、やられる方にとってはもちろん、やる方も意図的に、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」が行われている現場である。万が一、このまま改正草案が新憲法として成立したら、まさかいきなり憲法違反で連行されはしまいが、取り急ぎ「別件逮捕」風に捕まえて、後ほど法廷などで憲法を持ち出すのは簡単だ。例えば、歩行者も道路交通法を守らないといけない。


 前回引用した旧憲法では、「結社」という組織行動だけが対象になっていたのだけれども、この文意では個人の活動も対象になるだろう。その「個人」についてだが、前にも書いたように、このブログは「○○の自由」には、「○○をしない自由」という選択肢も含まれるという前提で書いている。

 これは一般の個人なら言うまでもないことで、集会に参加しない自由も、出版その他の表現をしない自由もある。何もしなければ、しょっぴかれる心配はないし、すぐには社会問題にもならない。だが、例えば議員のような公務員、報道関係の方々や、大きな社会的影響力を持つ学者や言論人の皆さんが、表現をしない自由を自在に駆使してよいものか。


 法的に問題はないのだろうが、社会的、道義的にはどうなのか、大問題だろうと私は思う。以前、フランスだったかドイツだったか、EUの主要国のオンブズマン制度を紹介するテレビのドキュメンタリーで、その代表者の一人が「まともな民主主義を維持するためには、情報公開が不可欠だ」と力説していたのをよく覚えている。仰る通りなのだ。

 されど以前、個人情報のくだりで話題にした「情報独占時代」の弊害は、こういう場面にも表れていて、情報を持つ者がなかなか積極的に公開しようとしない。このため、情報開示請求という手間暇のかかる手続きが必要となるのだが、その返事の一つを見せてもらったときの印象では、噂に聞く戦後すぐの教科書のごとく墨塗りだらけの代物であった。流行りの言葉で言うと「のり弁」。


 表現しない自由の実例を二つ挙げる。一つは報道機関が主役。私は小学生のころ、テレビ局や新聞社の人たちは、何て偉いのだろうと感心していたものだ。何でも知っているし、すぐに教えてくれる。この点は教師や両親より凄い。バカボンのパパも、「テレビの人」を敬っていたものである。

 ところが、この田舎の少年が育てあげた素朴な尊敬の念を踏みにじったのが、マス・メディアである。文藝春秋立花隆氏が発表した「田中角栄研究」が大反響を呼び、小僧の私ですら分かるところだけでも、雑誌や新聞の拾い読みしたのをよく覚えている。


 ところが、同じ文藝春秋の記事だったと思うが、後年、当時の政治部の記者などは、みんな金権政治の実態を良く知っていたのだという。立花論文以降も、もっぱら社会部が扱うスキャンダルだった。なぜ政治部が取り上げなかったかについては、保身のため黙っていた、当たり前すぎてニュースと思わなかった、本当に知らなかった等々、諸説あった。

 だが、大半の読者にとっての大問題は、そういう台所事情など二の次であって、社会の木鐸とか、国民の知る権利とか言っている人たちが「公益及び公の秩序を害さない」まま、金儲けだけしているという事態である。なんせ彼らも「公」の一員なので、戦前から前科はふんだんにある。


 しかし間抜けな私はすぐに忘れて、再び驚き呆れているのが、2011年以降の原発報道だ。次から次へと、「あのとき、実はこうだった」「本当は、よくわかっていない」などという話が、報道機関からだけではなく、財界からも学会からも続々と湧いて出てくる。思うに、この種の話題は、当面、在庫が払底しないほどあることだろう。

 原発ムラという言葉が流行った。どうやら美しい国では、田園風景や山野の光景が美しい村落の論理が、巨大で強力な組織ほど豊かに残されているらしい。村益及び村の秩序を害すると、古来、村八分にされるのが避けられぬ運命としてある。そういう意味では、先ほどの「認められない」という居丈高なご発言も、村の有力者が言うにふさわしい。適切な言葉選びだったのだ。
 

 ついでだから、同条の最終項にも触れる。国家によるお邪魔行為の禁止令、「検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。」が既に守られていないことは、ネット・ユーザーなら誰でも知っている。劇発または油断した者が、たとえ未遂であっても、余計な書き込みをした結果、あっという間に捕まっていることが、間接的ながらも疑いようのない証拠になっている。

 国民が「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」けれども、国家が「検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。」というルールを守らなくてもいい国というと、近隣に好例がある。全体主義国家の基本方針なのだろう。この規定、悪いことは言わないから、撤回したらいかが?


 それに、検閲がなされ、通信内容の秘密が守られないというおそれが既に現実のものとなっている時代であることは、古いところでは通信傍受法(通称は盗聴法)のときの騒ぎ、良かれ悪しかれウィキリークスの騒動、無線通信が常識となった通信網の発達などなど、材料を挙げればきりがない。

 以前プライバシーや個人情報を心配し過ぎるのも考えものだと書いたが、すでに私たちにはプライバシーそのものが、自分で思っているほど無いのかもしれない。このこと自体で余り困らないから私も偉そうなことを書けるのだが、どこかの防犯カメラに鼻毛を抜いている姿でも写っていて、全国ネットで犯罪者と一緒にその映像が流れたら、やはり商売でも交友でも困る。今の第2項は不滅の憲法理念として、このまま手つかずでなれけばならない。


 最後に、この第21条のあとに、改正草案は「第二十一条の二」を新設している。
(国政上の行為に関する説明の責務)
第二十一条の二 国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う。

 当然のことだから、これは良いかな。でも今日は、といいますか今日も、とても意地悪な気分なので(私の責任ではないと思う)、思いついたまま、この「点数稼ぎ」的な一文を書き入れた理由について思いをはせる。(1)今まで、やってこなかったから仕方なく。(2)全てを説明すると書かなければ問題ない。なぜか、これが「国民の権利及び義務」の章に入った。







(おわり)








畑の蜻蛉はどこ行った? あのとき逃がしてあげたのに − 吉田拓郎
(2016年10月2日撮影のムギワラトンボ)






















































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