おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

Lida (第1082回)

 
 こういうことを知らなかったというのもお粗末な話だが、このところ私が真珠湾攻撃と書いている一連の作戦行動において、攻撃した敵地は真珠湾だけではないそうだ。

 同じ島内だが、距離にしてホノルルから20キロぐらいあるのだろうか、カネオヘという地名があり、そこにも海軍の航空基地があった。オアフ島東海岸に面している。


 日本側の第一次攻撃隊は計画段階から二手に分かれており、第一派が時計と逆回りで島の西側を迂回した。時間を措いて第二波が、反対の東回りで真珠湾に向かった。理由は知らない。敵の待ち伏せを用心しての行動なのでしょうか。

 この2017年に米軍が導入する計画の駆逐艦に、「ジョン・フィン」という名がつくらしい。オバマ大統領の演説で、当時の上等兵曹だったと紹介されているジョン・フィンが、あの日このカネオヘに居た。


 後に当人が語り残したところよると、その日曜日、非番だった彼は自宅で奥様と週末の朝を過ごしていたらしい。そこに機関銃の音がした。方向も変だし、今朝、そういう訓練があるとは聞いていない。

 訝しんでいるところに部下の家人から伝言があり、即刻、出動するよう呼び出しの命令を受けた。まず、シャツを引っつかみ、次に靴をはいたと本人の記憶は詳しい。休日出勤。


 聞き慣れないエンジン音だった。当時の彼は35歳で、何十人かの部下を持つ手練れの飛行機乗りであるとともに、格納庫の管理担当でもあった。

 そのころ彼らの基地で使用している軍機のエンジンは双発だった。しかし、日本の航空機が見え、聞こえてくるのは単発の音。基地に向かう車の中で、「これはZEROだ」とジョンは思ったそうだ。

 あいにく正解だった。事ここに至り、本人いわく、彼の作戦行動の目的は、航空機と格納庫を守り抜くことにあった。そこには大量の爆薬が貯蔵されている。


 オバマ大統領の言葉を借りれば、彼が攻撃用に選んだ武器は、”a .50-caliber machine gun”、ブローニング社製の半インチ口径の重機関銃

 このマシンガンの写真をみると、地上で使う場合は、伸縮が利く三脚を立てて銃を載せる。ジョン・フィンが選んだ戦場は、駐車場の出入り口用通路だった。


 そこなら交通の都合上、木立も建物もない見晴らしの良い場所で、「敵機が一番よく見える」と思ったからだと当人は語った(過去形なのは、2010年に亡くなっているからです)。

 遮蔽物はない。だから敵からも、よく見える。写真をみると当時の彼は、「荒野の決闘」のヘンリー・フォンダのような穏やかな顔立ちで、OK牧場に向かうワイアット・ワープのごとく立った。


 その場で2時間以上、使い慣れないマシンガンの撃ちっぱなし。日本軍の第二波の攻撃隊は、主にパール・ハーバーの行きと帰りにカネオヘをおそったらしい。真珠湾での爆撃は2時間弱である。

 相手のパイロットの目が見えるようだったという距離で、ジョン・フィンは全身に21箇所の戦傷を負い、同僚も驚く全身血まみれの姿になった。うち二つは重傷で、片脚と肩に被弾した。左脚は骨折。その後、左腕の感覚を失った。


 この日この時に、カネオヘの上空を飛んだ第二波の「戦闘機パイロット、飯田房太」隊長の名は、同じ長州出身の我が総理のスピーチにも登場する。

 なぜか飯田姓を「リダ」という風に発音しているジョンの印象では、リダの零戦は、おそらく意図的にカネオヘに墜落したようだった。

 勝手な話だが、こういうお人にこそ生還していただき、この戦闘時の心境を語り残して欲しかったものだと思う。もっと勝手な人たちに、都合よく美化されてはかなわない。


 12月7日のカネオヘ基地の記録によれば、「ジャップ」の三機に損傷を与えている。しかし、ジョンは自分の弾丸も何かに当たったはずだと言うだけで、敵機の撃墜場面は目撃していないと述べている。

 ジョン・フィンはクリスマスイブに退院してすぐ、敵戦闘機が墜落した場所を訪れた。そこは基地内ではなかった。草が茂っていて、捜索は困難を極めた。


 ジョンの頭上をかすめて飛んだ最後の戦闘機は、撃つ間も無く視界から消え、彼はその後を知らない。だが一機が墜落したのは大勢の人が見た。その場は静かな湿地帯だった。

 飛行機の轍が見つからなかったため、パイロットは翼を揚げたまま墜ちたようだとジョンは推測している。通常の着陸ではないということだろう。探しに探して、ようやくクラッシュした戦闘機の破片を幾つか見つけた。


 その機は、編成を崩すことがなかった日本の戦闘機隊から離脱し、ただ一機離れて飛んで来たため、最初、彼は燃料切れだろうと思ったそうだ。当時まだカミカゼという言葉はなかった。

 だが今は、自ら運命を選んだのではないだろうかと思っていると、後に取材で語っている。真珠湾攻撃から五十年後、旧日本軍の「フチダ」が来た時、ジョンは彼をリダの現場に案内した。


 ブレード三つで機体を飛ばすエンジンは、零戦が大地を叩いた衝撃で、その地点から20ヤードほど、丘の上まで転がったらしい。カネオヘの地対空で交戦した二人にとって、最後の参戦になった。

 あの日、マシンガンを打ち続けたのは自分だけではないと、ジョン・フィンは力説している。このことは、本物と思われる映像も残っており、間違いないだろう。

 彼は2009年、アーリントンの無名戦士の墓で行われた式典において、その間中、隣に座っていたオバマ大統領から、名誉勲章を受けた。翌年100歳の誕生日を迎え、間も無く世を去っている。






(おわり)






単発の残骸  −  推定グラマン
(2017年1月14日、テニアン島にて撮影)










 戦い済んで 日が暮れて
 探しに 戻る心では  「戦友」

























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