おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

言いたいことは今のうちに  (第1110回)

 先日、長いこと観よう観ようと思いながら、20年も経ってしまった映画「エネミー・オブ・アメリカ」をレンタルで観た。アメリカの外敵なんて、世界中にいるから珍しくも何ともないのだが、この映画のエネミーはそうではない。

 原題は「Enemy of the State」、すなわち国家権力の敵。獅子身中の虫のことだ。虫は誰だろう。主人公のウィル・スミスか。彼は通りがかりに巻き込まれただけで、アクションやサスペンスの映画として楽しむならばヒーローだが、意図的に国家体制を敵に回しているのではない。


 むしろ、いい歳して相変わらずフレンチ・コネクション時代が忘れられず、派手にカー・チェイスをやらかしているジーン・ハックマンのほうが、よほど強敵と呼ぶにふさわしい。だが、本当の国家権力の敵は、ジョン・ヴォイトだ。あまり映画の観方を他人様に押し付けたくないが、ここは主張のしどころなのだ。

 彼とも長い付き合いになります。ニュー・シネマのころはまだ若くて真面目な労働者風だったが、こちらも亀の甲より年の功で、悪役を張るのに十分人相も悪くなった。その彼が演ずるのが、テロ防止法案を通そうとする政治家の旗振り役...。奇しくも、よく似て、間が抜けている。

 彼が尻尾を出すきっかけになるドジを踏んだのは、偶然バード・ウォッチャーのカメラに収まったからで、当時は監視カメラも場所が限られていたから、油断したね。ちなみに、撮影したかったのは政治家ではなく、渡り鳥のカナダ・ガンで、前回話題にしたハドソン川の迷惑。どこにでもいる鳥さんらしい。


 1998年公開の映画です。テロリストとGPSの発信機が活躍する「20世紀少年」の連載開始から間もない。映画を一回見た限りでは、まだニューヨークでさえ、携帯電話もEメールもデジカメも普及していない。そんな時代における国家中枢による監視や諜報を、技術・暴力の両面から描いたものだ。

 ここに出てくるテクノロジーが、当時のIT水準からするとSF的な作り物なのか、それとも実態に近いのか知らないが(9.11は、防げなかった)、20年たった現在では、とっくに実現し、その上を行っているだろう。最近の容疑者の割り出しと逮捕は、異状に早い。一見、安全安心な社会になってきた。

 これを書いている翌々日の2017年7月11日に、共謀罪法が施行される。あれだけ揉めて中身が変わった法律を、こんなに短期間で施行するというのは、どういう必要性があってのものか知らない。取りあえず、折りよく野党が臨時国会の召集を求めたので、それまでは待つかという当局内の気分の醸成に役立つ。


 話は変わるけれど、1990年代の後半に駐在したカンボジアは、まだ混乱状態が続いていた。それも、段々と落ち着いてきて、赴任中にポル・ポトが死に、ようやくアセアンにも入れてもらって、最近は景気が良いらしいと聞く。

 当時、カンボジア駐在の外国人や、在外公館・国際機関などの治安担当だった国連UNDPで働いていた恐い武官と、差しで話をする機会が一度だけあった。今も印象に残っているのだが、彼がカンボジアの高官から、「クメール・ルージュは、自分たちの心の中にいる」という話を聞いたという話題が出た。

 
 当時のカンボジア人は、まだ記憶に新しいクメール・ルージュ(日本では、ポル・ポト派と呼ぶ)時代のことを、滅多に自分から話そうとしなかった。辛い時代だったからだろうと思っていたのだが、それだけではなさそうだった。

 この残虐な政権は、ひねくれたマルキシズムに染まり、知識者階級は非生産者であって、人民の敵(本当は国家権力の敵)である。見つけ次第、現場で処刑して良しという文化大革命の落とし子で、多くの独裁政権と同様、密告と共同責任体制を偏愛した。


 このため、あくまで聞いた話に過ぎないが(それにしても、よく聞いたが)、例えば子が親をチクり、処刑に至らしめるというのが珍しくも何ともなかった由。そういう何かが、自分たちの心の中にいる。だから容易に話せない。軍国日本の時代とそっくりだ。

 隣人は、無理して愛する必要はないが、疑心暗鬼にとりつかれて過ごしたら、権力機構の思うつぼです。分割して統治せよと言ったのは、古代ローマだった。あれはまだ教科書に載っているだろうか。これから長い心理戦になることを覚悟しておいたほうが良いです。





(おわり)





自由の女神は、世界中から来る移民の庇護者
(2017年7月5日、上野公園にて撮影)







知らせられたり知らせたり − とんとんとんからりと隣組
























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