おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

攻撃は最大の防御なり  (第1154回)

 今回で硫黄島の戦いに関する二つの映画の感想文を終える。この「攻撃は最大の防御なり」という格言は子供のころから知っていたのだが、単純に「防御より攻撃のほうが重要だ」と信じておりました。田舎の小僧がスポーツを見れば、ボクシングも野球も相撲もサッカーも、攻撃している方が断然格好いいし、点が入って技が決まらなければ勝てない。

 その解釈は間違っている。この一文においては、「目的」が防御であり、最良の「手段」が攻撃である。格闘技の経験者なら端からご存じのとおり、受け身もできないうちに攻めたところで、余ほどの実力差がない限り、イチコロの負けだ。


 硫黄島の戦いは、本土防衛という美名のもとで、もはや防御の戦力も枯渇しつつある日本軍が、老兵と少年兵が多い部隊を、硫黄島の守りにつかせた。うちの伯父の戦死地であるマリアナでは、すでに前年(1944年夏)の段階で日本軍が防戦一方となっており(なんせ大本営にしてからが、絶対国防圏と呼んでいる)、その戦術といえば水際作戦とバンザイ突撃だった。

 残念極まりないが、あっという間に負けた。伯父の連隊も、妻子がいそうな老兵と、子供のようなあどけない顔付きの少年兵ばかりで、小銃は二人に一丁しかなかったという目撃談がある。これを作戦変更したのが、まずパラオの日本軍で、途中から水際作戦を見限り、ペリリューの自然が生んだ数百の洞窟に籠城して長期戦に持ち込んだ。

 ほぼ同じころ、硫黄島で始まりつつある戦闘においては、初めから水際を捨て、栗林兵団は人工の地下要塞を構築し、攻撃態勢を敷く。栗林中将が残した「敢闘の誓」は、島を守り抜けで始まり、ゲリラで戦い抜けで終わる。守りっ放しのゲリラなんてものはないだろう。


 この一ト月余りの戦闘を描いた書籍や映画は、マリアナの戦いより遥かに多いはずだ。これは米軍にとって想像を上回る激戦になったからだけではあるまい。長期消耗戦に持ち込んだだけに、全滅したにも拘わらず日本側にさえ数多くの記録が残った。ときには軍部の電文として、また、あるいは手紙として。

 栗林兵団長も、一時期はジャーナリストを目指したといわれるだけあって、筆まめなお方であった。まだ、他の太平洋の戦場と比べ、比較的、日本に近いのも幸いして、この時期の戦闘の遺族の中では、最後の思い出を多く受け取ることができた稀有の例かと思う。ただし同じ理由で米軍の戦後占領が長く、還って来ていない遺骨が多い。


 伯父の敵は海兵隊と海軍だった。硫黄島も同じ。最初に海軍の艦砲射撃と空爆があり、こちらの地上施設や航空機が破壊されつくした後で、海兵隊が上陸してくる。前にも書いたが、そんな理由で一時期、海兵隊に興味を持った。いま陸自海兵隊的な部隊を作ろうとしているとの報道があるが、専守防衛と、攻撃は最大の防御なりは、両立するのだろうか。

 アメリカの第1海兵師団は、ガダルカナルに上陸し、ソロモン諸島からパラオに向かった。マリアナ諸島を襲ったのは、サイパンテニアンが第2と第4、グアムにはタラワを経て第3が来た。諸島の占領が終わり、第2は沖縄に進んで、代わりに来た第5が第3と第4に合流して、硫黄島に襲来したのだ。摺鉢山の星条旗は、第5が立てた。

 硫黄島の戦いで海兵隊を率いたのは、ホーランド・怒鳴りっ放し・スミスという男で、映画「父親たちの星条旗」で、「たった三日の艦砲射撃か。くそったれサンキュー。」と、受話器に向かって怒鳴っていたのが彼だろう。電話の向う側は、この罵倒に堪えられる者がいるとすれば、飲んだくれ提督のターナーか。彼らもマリアナ方式で行けると思っていたらしい。


 梯久美子さんは私と同世代で、「散るぞ悲しき」は栗林中将の手紙や、関係者への取材、大本営に改竄された電文や辞世の句を丁寧に収集した力作だ。関係者にはご遺族に加え、先回ご案内のジェイムズ・ブラッドリーにも会ってみえる。ただ一つ、僭越ながら、まず私の理解で間違いないと思う部分を指摘申し上げます(ちなみに私が読んだのは単行本です)。

 摺鉢山の頂上付近に立っている米軍のモニュメントについて、一対の「V」の字の意匠が施されており、「victory」の「V」だろうと書かれているのだが、これは第5海兵師団の記章で、ローマ数字の5を表す「Ⅴ」だ。ヴィクトリーに掛けているとも思うが。中央のとんがったデザインは、一本鎗の穂先。


 硫黄を含むガスには猛毒のものもあるから、硫黄の臭いに対して、私たちの嗅覚は敏感に反応する。この島に渡った日米両軍の記録には、全島から噴出する硫黄を含んだガスの悪臭に辟易した記録が、多々残っている。きっと草津温泉煮しめたような所だな。日本軍はその地下に潜り、敵を待った。

 火山島とあって地熱もあり、地下の壕や通路の工事は困難を極めたに違いない。そして水がない。「大空のサムライ」の坂井三郎は、硫黄島の戦いの序盤、同島の飛行場を拠点に空中戦をしていたころは、天然の硫黄温泉を海辺で楽しんでいたが、帰還命令が出るころには渇水に苦しみ、木更津で水の美味しさを堪能したところで同書の著述を締めくくっている。


 いま話題のシヴィリアン・コントロール文民統制)は、平時であれば戦争が起きないよう軍部を抑える役割であるが、戦争が始まればこれを極力、小規模かつ短期間に抑えるのが役目だ。

 先の大戦時の日本には、この戦争を終わらせるという機能がなかった。今もあるようには見えない。戦場の軍人は勝つか死ぬまで戦わなければならない。犠牲や損失を覚悟の上で、誰かが止めようと言い出すまで、長引かせるのが精いっぱいだ。

 硫黄島の戦い以降、消耗戦は勝つも負けるも悲惨な戦況になった。この世の地獄。戦史を読んでいても、米国さえ摺鉢山の星条旗以降、これといって興奮や自慢の種になるようなものが無かったから、こういうモニュメントや映画ができ上がるのではなかろうか。無宗教の私にとって、地獄はこの世にしかない。こんな終わり方で済みません。



(おわり)




テニアン島のアリジゴク  (2017年1月13日撮影)













 Over the hills where the spirits fly...

   ”Misty Mountain Hop”   Led Zeppelin






























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