おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

スプーン曲げ (20世紀少年 第860回)

 先日のセミナーで年配の講師から言われた。今の親は自分の子に甘く、子と同世代の自分の部下に厳しい。感心している場合ではないが、感心してしまった。昨今の労使関係を見るにつけ、家庭のツケが職場に回っているようなものらしい。我らの世代は国中がのたうちまわるような戦争も革命も飢餓も経験することなく甘く育ち、更に甘い世代を拡大再生産している。

 隣の県では高校の教師が自分の高1の子の入学式に出席し、自ら高1の担任を務めることになる同日の入学式を休暇で欠席し物議をかもしている。初日に担任が私用で不在。何処が悪いという意見も少なくない。私は職業意識という言葉が好きなのだが、世間では軽んじられ始めているらしい。何の影響力も持たない身の上としては、身近から変えていくほかない。


 さて。下巻の71ページで万丈目はケンヂに対し、「伝わったよ、カンナに」と報告を終えた。これでやっと世のため人のためになれたかと万丈目の表情が和らぐ。これだけで彼の過去を精算できるのかどうか知らないが、親鸞聖人によれば「いはんや悪人をや」だ。ケンヂも「ああ」と賛成しているし。

 NASAの備品をまだ持っていたのか、万丈目はスプーンを一つ取り出した。「何がスプーン曲げだ」と彼は自嘲して語る。曲がるわけないのに嘘ついて、と御託を並べていたらスプーンが曲がった。万丈目の目に涙があふれる。「いい事したからかな」と不思議な因果関係を持ち出しつつ、老人の表情は仏様のように穏やかになった。


 さあ今日も積み残し課題の整理である。話題が出るたびに逃げて来たスプーン曲げの秘密。決着を付けなくては。万丈目はここでこう言っているのだから、これまでずっと手品かインチキで曲げていたのだろう。フクベエ少年が曲げたときも驚いていたし、そもそも超能力者なら自分で自分をプロモ―トすればよい。

 手品だとしたら前もって曲がるように細工してあるスプーンにすり替えればよい。かつて市原弁護士たちの前で三本曲げ、また、バーチャル・アトラクションの中だが喫茶さんふらんしすこのマスターの前で曲げたが、どうやら単なる悪戯だったようである。おそらくコイズミがバスの中で曲げてしまったスプーンも似たような仕掛けがしてあったに違いない。


 カンナは本当に曲げている。3歳のころ「ゆりげらあ」の話を聞いたカレー屋さん、2014年に新宿の教会で集会が開かれたときの檀上。ともだち府でランチ・デートの最中にも、”ともだち”の前で曲げている。

 こんな力、何になるのよと叫んだ彼女であったが、どうしてなかなか「21世紀少年」では超能力少女として大活躍である。叔父上のケンヂは、小学生とはいえ全力でひん曲げようとしたがビクともしなかったうえに、同級生から注意されている。


 以上のスプーン曲げ騒動は話の本筋とほとんど関係がないと言ってよい。問題はフクベエなのだ。彼が死の直前に吐いた「誰か僕を見てよ」というセリフは、そのために使った諸手段の善悪はともかくとして、フクベエの心からの叫びであるように思う。死ぬまで僕はコリンズだったのだ。

 実際にフクベエがスプーンを曲げて見せる(とみえる)シーンは一か所だけで、上記のとおり第16集の小学校5年生の秋ごろに、万丈目の商品を曲げて驚かせている。推測ながら以前にも山根の前で曲げ、手品と言われて怒ったようだ。だが後年、その山根に君は嘘つきと人格否定されているのをどう考えるか。


 物語には悩ましい出来事が二つある。給食のスプーン曲げ事件と、テレビ番組の児童A事件だ。前者は桜の花散る季節に、山根が聞き及んで「鳥肌が立った」と感想を述べているから、小学校6年生の春だろうか。

 先生に誰がやったと問われて手を挙げたと本人は言うが、関口先生は誰だったか忘れてしまった。クラス会でやり直しがあり、このときは間違いなくフクベエだけが挙手している。

 嘘つきだから曲げていないというだけでは説得力に欠けよう。それに少なくとも、クラス全員のスプーンを給食が食べられないほど曲げた誰かがいるのだ。他に誰も手を挙げていないのなら、候補者はフクベエしかいないと考えるのが自然ではないか...。


 児童A事件はいかがであろうか。まず何時のことか。第18集で不祥事のあとフクベエと万丈目が言い合いをしているのは1972年とあり、フクベエはセーターを着ている。この年は彼が中学校に進学した年だ。

 NHK文化研究所のサイトによると、報道では学校教育法および教育の現場で使われている用語に従い、小学生を児童、中高生を生徒と呼ぶ習わしであるそうだ。実際に先日、知り合いの文部科学省の方に確認したところ、その通りだと思うとのことでした。

 ちなみに厚生労働省系の児童福祉法では、満18歳に達するまでの者を児童と定義しているのだが、同じ政府内でどうしてこういうことになるのかな。ともあれ児童A(12歳)の事件は新聞記事として残っているのだから、フクベエは小学校6年生で年明けの三学期だろう。


 新聞ではベタ記事扱いになっているので、タイトルが「インチキで番組打ち切り」、本文も「念力によるスプーン曲げが虚偽であることが判明」などと簡潔であり、詳細が不明である。被害者ともいうべき万丈目はインチキ説であり、フクベエは「僕は本当に曲げた」と譲らない。

 フクベエは事前にテレビに出ると威張ったようで、結局出なかったため、学校でイジメを受けたという。つまりケンヂのクラス内でだ。ケンヂがイジメをするはずがないというのは早合点で、例えば「お前、出なかったじゃないか」という程度はどんな子でも言うものだし、それをイジメと受け止めるのはフクベエの勝手である。多分こんな調子で更にひねくれたのだろう。


 こうして悩んでも結論が出るはずがないのだが、どっちかに決めろと言われたら、二つの理由によりフクベエが曲げたと言おう。一つ目の理由は先述のとおり、他に候補者が見当たらないという消去法的な苦しい結論。

 もう一つはもう少し自然科学的な理由で、カンナの超能力が遺伝によるものなら(「秘薬」よりは、まだしも科学的だとドンキーも言うだろう)、両親のうちキリコはそういう特殊能力は持っていないようであり、父親だけが自称超能力者だ。ただし、トンビが鷹を生んだようで、カンナはフルコースの超能力を発揮するが、フクベエはスプーン曲げのみであり、宙に浮くときも復活するときもインチキするしかなかった。

 フクベエは万丈目に対して、僕は児童Aなんかじゃないとも訴えている。彼は顔も名前もない少年になってしまったのだ。そして、そのまま大人になってしまったのが人類の不幸であった。でもやっぱり本当に曲げられるなら、クラス中が見ている前で曲げるだろうな...。強力なエスパーなら隣のクラスにいても曲げるだろう。カツマタ君には予知能力がある。



(この稿おわり)





大阪出張時に撮りました。どこかで見たようなお顔。   (2014年3月5日撮影)








 Some folks are born silver spoons in hand.
 Lord, don't they help themselves, oh.
 But when the taxman comes to the door,
 Lord, the house looks like a rummage sale, yes.
 It ain't me, it ain't me. I ain't no millionaire's son, no.
 It ain't me, it ain't me. I ain't no fortunate one, no.


     ”Fortunate Son”    Creedence Clearwater Revival



 世の中には銀のスプーンを握って生まれてくる奴らもいる。
 神様、彼らは自ら助く者ではないのですよ。
 でも、税金取りが来る時だけは、
 なぜか彼らの家はガレージ・セールスみたいな慎ましさ。
 俺は違う。金持ちの子じゃない。俺は違う。ついてない。







 曲がったものは、まっすぐにすることができない
 欠けたものは数えることができない

               「コヘレトの言葉」 

















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