おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

さよならぼくのともだち (20世紀少年 第604回)

 第19集に入ります。この巻は最初と最後のごく一部を除けば、ケンヂによる関東軍の関所破りの一幕である。オッチョとカンナ同様、ここでケンヂも多くの実に良くねえ絶望を見る。冒険物の劇中劇と見るならば、ショーグンに角田氏がいたごとく、ケンヂには蝶野元警察官がいる。

 あえてこの巻の難点(私にとって、です)を挙げれば、前後の物語の展開とほとんど関連性がないこと、また、拳銃やナイフを振り回す物騒な輩が多くて、すさんだ世相が丸写しになっているため読後感があまり宜しくない。何より少年時代が出てこないのが淋しい。


 とはいえ、ケンヂの回想も聴けるし、あっさり東京に戻ってきては面白みに欠けるのも確かだな。これ以上は文句言わずにちゃんと読もう。第1話「最後の得物」は、第18集の続きから始まる。すなわち、万丈目とオッチョ、カンナの会話の後半である。フクベエだったらどうしただろうと言ったあとで、”ともだち”は背中越しに「ねえ」と万丈目に声をかけた。

 それにしてもだ、万丈目すら分からないほど、フクベエと新”ともだち”は声色や口調や仕草や体格が似ていたのか?? 似ていたんだろうねえ...。心当たりさえないらしく、「今の”ともだち”は誰なんだろう?」とオッチョたちに訊いている始末だ。

 ”ともだち”は「火星移住計画はどうなっている?」と訊いた。火星でもハイぺリオンでも構わないが、移住に成功したら人類滅亡にならないよ。万丈目はそんなのはまだ先の話じゃないかなと話題をそらそうとしているのだが、相手はこれに構わず「急がないとね」と言った。万丈目は珍しく「あ、あ...」とどもったあとで、「何をするつもりだ」と尋ねている。


 「だってフクベエなら実行に移しているはずなんだ。人類滅亡計画。」と明言したからには、先ほどの「フクベエだったらどうしただろう」も小声だったとはいえ、万丈目に聞えるように言ったのだ。もうここで自分はフクベエではないことを、少なくとも万丈目には宣言してよいと判断していたことになる。

 それほどの決断を一気に促すような大事件があったとは思えないし、万丈目も何を急がないといけないか分からず訊き返しているくらいだから、これは事態の急展開を踏まえて一大決心の結果というようなものではなかろう。ウィルスの被害が過少だったという結果報告を受けて、では次に進むかというだけのことか。その実行に際して、いまや万丈目が自分の正体を疑おうと知ろうと、どうでも構わないらしい。


 万丈目も同じような感想を抱いたとみえる。そのときの”ともだち”の最後のセリフは人類滅亡計画が「これが最後の最後...だって。これで、完成だ...って。」という、フクベエの過去の言葉を伝えているかのような発言だが、万丈目はカンナとオッチョに対して「完成? 何を言っているんだ。面倒くさくなっただけだろう」と吐き捨てるように言っている。

 オッチョもカンナも驚きのあまり声もない。万丈目は「頼む。あいつを殺してくれ。」と言った。自分でやりなさいってば。この男は人を使って楽して儲けようという根性が全身全霊に染みついているのだ。山あり谷ありの人生を自分の足で歩み続ける神様とはえらい違いである。


 万丈目がシェルターなどこしらえて震えているのは、ただ単に自らの身体、生命に危機が及ぶのを恐れているだけではなく、もはや”ともだち”に必要とされておらず、問題にもされておらず、捨てられたも同然でこれからどうなるか分からないという強烈な不安もあるに違いない。粛清されるかもしれない。独裁者の心理と残酷さはご本人が私より詳しい。

 頼まれてしまったカンナの決意と行動については、この巻の最後から第19集以降に描かれているので、そのときまで待つとして、物語は東北から東京に向かう二人の男が、のどかに釣りをしている場面に切り替わる。



(この稿おわり)




谷津山より静岡市街を望む。ここで私は生まれ育った。
(2013年1月3日撮影)



 弱虫で優しい静かな君を
 僕はとっても好きだった
 君は僕のいいともだちだった
 さよならぼくのともだち
 さよならぼくのともだち

          森田童子 「さよならぼくのともだち」



















































.