とうとう、この場面が来てしまった。この”ともだち”がなぜ、「僕こそが、トゥエンティースセンチュリーボーイだ」と主張するのか。また第8話のタイトルにあるように、どうして「僕こそが」と強調するのか。ほかにも混乱要因があって、ずいぶん考えたのだけれど頭の中が整理できていない。まあ、書きながら考えます。
エレベーターのドアが開いて、カンナは一人で先に外に出た。そして、中の男に「あなたは殺さないわ」と言った。「なぜだい?」と訊かれて、「本物の”ともだち”じゃないから。」と明確に答えている。本物なら、つまり実の父親だからこそ相討ち覚悟で殺しにきたのだ。でも影武者を殺しては、関係のない(少しはあるかな)人を巻き添えにしてしまい、ケンヂおじちゃんの教訓に反する。
ここでややこしいのは、カンナが影武者と呼んでいるということは、別人がすり替わったのではなく、本物はまだ生きていると彼女が考えているかどうかだ。おそらくそうだろう。それを否定する材料を彼女は持っていないはず。身の危険を感じた本物が、影武者にアポイントメントの用事を命じたと普通に考えればそうなる。では最後の最後まで、そう思っていたのか? これが今はわからない。追って考えます。
相手の反応も不思議な言葉づかいである。「本物って何だい?」と”ともだち”だか影武者だかは言った。影武者に徹しようとするならば、先刻そうしたように自分が「ホンモノだよ」と言えば済むだけのことである。彼はカンナが自分を本物ではないと決めつけていることに抗議はしているのだが、ここでは自分が本物のフクベエだといっているのではなく、カンナのいう「本物」が、自分にとっての「本物」と意味が違うと考えての発言ではないか。
言い換えれば、フクベエかどうかはもはや本質的な問題ではなく、彼は「本物」の”ともだち”であるという確信が、「本物って何だい?」という質問の根底にある。若き日の長髪の表現を借りれば、どっちだっていいや、”ともだち”なんだからということだ。しかしカンナは、私のように無用な悩みで消耗することなく、即座に「あなたは誰?」と訊いている。
これも話の流れが変わり出している質問であろう。単に重要人物の身を守るための影武者なのであれば、カンナにとっては名前も素性もどうだっていいはずである。それなのに誰だと尋ねるということは、勘の鋭い彼女のことだから、相手の言動に何か嫌な予感がし始めたに違いない。どうやら、単なるコピー・ロボットではないようなのだ。
読者はすでにキリコから、フクベエではないなら平気でカンナを殺すわと聞いているが、カンナはまだそれを知らない。そこで直接、本人に確かめたのだが、相手は意外なことに「僕が誰だかケンヂが知ってるよ」と応えた。こういう返答はフクベエならしない(仮に彼が死んだふりしたか、本当に生き返ったとしたらだが)。”ともだち”の正体がフクベエであったことは、ケンヂ以外にも大勢がすでに知っている。フクベエのふり続けるなら、こういう返事はできない。
この148ページの「本物って何だい?」と、149ページ目の「僕が誰だかケンヂが知ってるよ」は、キリコの考えが正しかったことを示しているだけではなく、フクベエではない誰かが、自分がフクベエではないことを、万丈目に加えてカンナにも知られて構わないという行動を取り始めたということだろう。世間はフクベエを知らない。”ともだち”が復活した神話を信じさせておけば十分ということか。
さすがのカンナも「ケンヂおじちゃんが知ってる?」としばし呆然の体である。”ともだち”は「ああ...」と確認した。それから背筋を伸ばし「僕が、僕こそが、トゥエンティースセンチュリーボーイだ」と言った。彼は「20世紀少年」を英語で言ったが、目の前でエレベーターのドアが閉まるのを見ながら、カンナはどうやら日本語に置き換えて「20世紀...少年...」とつぶやいた。男はもちろんカンナもまず間違いなく、T.rexのシングル・ヒット、「20th Century Boy」を知っている。
カンナはこの曲を大みそかの夜に、スイッチを押しっぱなしのトランシーバーからケンヂが歌っているのを神様たちと一緒に聴いた。ケンヂが残したカセットやCDの中に入っていたかもしれない。60年代フリークだったカンナだから、この曲を知っていても不思議ではない。だが、ケンヂがこの曲を中学生時代に放送室ジャックをして全校に流したのを知っていたか。たぶん知らない。ケンヂ自身、忘れていたとトラックの中でマルオに言ったのだから。
したがって、いきなり「僕こそが20世紀少年だ」と古いロックのタイトルを引用されても、カンナは訳が分からなかったはずである。それは言った本人も、承知のうえでの発言だろう。だが、敢えて謎かけのように口にしたのは、ケンヂに訊けばわかるというより、ぜひ訊いてくれというメッセージではないだろうか。しかも字面だけで判断するほかないが、これはケンヂが生きていることを前提にしなければ言えないことだ。
もはや、この”ともだち”がカンナに全く関心がないことは、”絶交”命令からして明らかである。しかし、彼はケンヂが生きていると思っているか、すでに聞き知っている。そして”ともだち”とケンヂの結節点として、「20th Century Boy」が登場したのだ。なぜか。これまでのストーリーを振り返って、もう少し考えをまとめてみたい。なんせ、この漫画の題名なのだ。ゆめ、おろそかにできないのである。
(この稿おわり)
八重の桜も今年は早かった (2013年3月20日撮影)
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