おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

愛の反対 (20世紀少年 第755回)

 The opposite of love is not hate, it's indifference. The opposite of beauty is not ugliness, it's indifference. The opposite of faith is not heresy, it's indifference. And the opposite of life is not death, but indifference between life and death.

 いきなり英語で始めたのは初めてか。これは「US News & World Report」というアメリカの雑誌の1986年10月27日号に、ユダヤ人作家でノーベル平和賞の受賞者でもある Elie Wiesel 氏が書いたものだ。拙訳を載せます。


 「愛の反対語は憎しみではなく無関心である。美しさの反対語は醜さではなく無関心である。信仰の反対語は異端ではなく無関心である。そして、生の反対語は死ではなく、生死についての無関心である。」

 冒頭の一文はマザー・テレサの言葉としても広く知られているが、どちらが先に言ったのか知らない。マザーの場合、キリスト教では愛(アガペー)とは最大級のプラスの価値を持つ言葉だろうから、無関心とか冷酷さというのは最大級のマイナスの価値ということになる。ヴィーゼルの場合、私見では最後の”and”の続きこそが、彼の強調したかったことではないかと感じる。生と死に対する無関心。彼はアウシュビッツ収容所から生還した男だ。

  
 さて、かつて第22章でマルオやケロヨンが突き当たった壁がどの辺にあるか、真面目に地図とにらめっこしたことがある。誰もその努力や着想を評価してくれない作業が、自分としても失敗だったと判断せざるを得ない終わり方をするのはとても辛いものです。マルオが運転席、ケロヨンが助手席、息子が後部座席に乗るヴァンの中で、ケロヨンが「人っ子ひとりいねえ」と眺めている道はかなり広い通りである。

 彼らの出発点は東村山の旧カエル帝国である。仲畑先生の病院だか収容所だかが埼玉のどこにあるかは分からない。ともあれ、東村山から府中街道を北進するとすぐに埼玉の所沢に出て、その北には川越がある。このあたりからなら川越街道で東京に行ける。もっと北からから中山道か。いずれも信州と江戸をつなぐ街道なので、長野にいたオッチョが戻って来るにも便利である。


 どちらの道も壁が張り巡らされているという環七と板橋区で交差する。すぐ近くにマルオたちが飛び込むにふさわしい石神井川が流れている。ただし、環七の内側というのが証拠として弱い。それに私の知る限り、このあたりにデパートはない。さて、ケロヨンはこの分だと、すんなり東京に入れそうだと気楽なものだ。

 なんせ”ともだち”は自分が悪玉であることを白状したのだから、守る側の士気も衰えておろうぞというのがケロヨン説である。これに対してマルオは「統率を失った軍隊ほど恐ろしいものはない」と冷や水を浴びせている。彼のいう恐ろしさというのは武力のことではなくて、民衆に殺されるかもしれないという恐怖で何をするか分からないということらしい。これをヨシツネがどう解決したか、あとで見よう。


 マルオが運転する車は、とうとう壁にたどりついた。「よし、じゃあ、ちょっと行ってくらあ」とケンヂと同じようなセリフを残して、ケロヨンは気楽に車を降りた。心配する残りの二人に、こっちは丸腰なんだ、話せばわかると犬養毅のようなことも言った。首相の運命を知らなかったのだろう。検問に向かって「ワクチンを分けてやってもいい」と取引を始めたが、そのあとの「人数分はない」というのは実に余計な一言であろう。

 息子がふと道端を見渡すと、歩道に銃殺されたらしき亡骸がゴロゴロと転がっている。彼とマルオはケロヨンを救いに走る。ケロヨンは「そこに立て」という地球防衛軍らしき男たちに言われて、素直にバツ印の標的の上に立った。果たして彼は銃撃を浴びたが、幸い弾は当たらず、でも車は何発か被弾している。


 3人は慌てて近くの小川だか放水路だかに飛び込んだ。「”ともだち”の弾丸は無駄にするべからず」という節約術が攻撃側のスローガンらしく、水に潜って逃げたおかげで追撃は免れたのであった。この地球防衛軍、まさに市民の生死など全く無関心なのである。彼らのみならず北の検問所でも、関東軍もそうだった。冷酷である。「実によくねえ」とも言う。

 彼らを統率してきた男は、私の仮説が間違っていなければ、生きているか死んでいるかさえ関心を持ってもらえない少年時代を過ごした。でも、サダキヨだってそうだった。二人は同じ仮面までかぶっているし、それに別の意味で宇宙人に対する関心も高いのだが、素質なのか運なのか途中から全く別々の人生を歩むことになる。

 サダキヨには関口先生がいたしコイズミとも会った。これは運だろう。でも、「ズルはだめだよ」と主張したり「自分は良い者か悪者か」を十年以上も悩み続けるのは運ではない。これまでも漫画での登場頻度の割に、小欄ではサダキヨの話題を良く出すのだが、その一因は彼とケンヂに似ているところがあるからで、いずれまたその話も書こうと思います。



(この稿おわり)





木洩れ日 (2013年6月2日撮影)

































.