おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

路上  (20世紀少年 第838回)

 上巻の177ページ。それまで少年の背後にいたババは正面に回り込んで、彼の胸倉をひっつかみ「じゃあ、これは何だね」と本人に盗品がバッヂであったことを示し、次の瞬間にはご老人とは思えぬ素早い身のこなしでバッヂを胸のポケットから取り上げている。

 少年は返してよと所有権を主張し、当たりが出たからと無実を訴えるのであるが、ババはあんたが当たりを持ってきた記憶はないねと拒否。あの「あたり」の紙はどこへ行ったのだろう。ババが見落としただけか、風で飛んだか、まさかケンヂが持ち去ったか...。


 少年は嘘を言ってはいない。だが手渡ししなかった点はババの言う通りなので立場が弱い。でもどうしても諦めきれなかったようで、おばあさんがいなかったから当たり券を置いたのだと食い下がったのだが、これが裏目に出て火に油を注いでしまったらしい。

 ババもバッヂを取り返せば十分だったはずだが、少年の往生際の悪さに八つ当たり的な行動に出た。すなわち「バァさんだからって、なめんじゃないよ」と戦前派らしく歯切れの良い啖呵を効かせて、彼のお面を剥がしてしまったのであった。

 
 少年が「うわっ」と叫んだ瞬間にババはその素顔を見ているはずだが、残念ながら読者には後頭部しか見えません。素顔になった子は地面に突っ伏っして泣いてしまった。そんなに見せたくない顔なのか。サダキヨは遠足のときなどはお面を外していたのに。

 この展開で顔が満天下のさらし者になったら、ずっとイジメられそうだと思ったのだろうか。隠したままなら転校するサダキヨのせいにできるか。ババの怒りはこれでもまだ解けない。「悪い子はあんただ」と判決を下し、「親に言うか? 先生に言うか?」と罰則の選択肢を示している。


 われらの子供の頃は両親と担任という三人の強敵がいて、悪事を働くにも相応の覚悟が必要であった。しかし去年だったか、小学校の先生が「かつては親と教師が三人がかりで一人の子を育てていたのだが、今では一人の教師が一児童につき三人の子供を相手にしないといけない時代になった」と嘆いていた。はー。

 ジジババの店先では子供らが大勢集まってきて、半円形に取り巻いて見物中。一人が「犯罪者だー」と断定し、もう一人が「ハイ、それまでぇよぉ」と節をつけて唄っている。山根は楽しそうに見ており、フクベエは冷たい目をしている。彼らは先ほど公園で少年に、将来、殺人者と被害者になると言われたばかり。


 マルオは「あーらら、こらら」と言っている。これには節がついていて、そのメロディーも私は知っているし、その続きの歌詞が「先生に言ってやろう」であることも知っている。先生に知られるのはまずい。両親なら家庭で叱られるだけだが、学校となると公衆の面前で恥をかくから厳罰である。

 そこへ背後から遅れてケンヂが走って来る。人垣を見て「どうしたー」と訊けば、マルオが見ろよと誘い、ヨシツネが「宇宙特捜隊のバッヂ、万引きしたんだって」と解説した。ケンヂは「.......」と言った。一瞬にして事態を把握したらしい。


 ヨシツネは隣のマルオに本当に当たったのかと疑いをかけ、マルオはバカ言うなと言い返す。大体あれは当たらなすぎだと二人の会話は子供らしく賑やかに続く。ところが買い食い仲間のケンヂに同意を得ようとヨシツネが「なあ、ケンヂ」と振り向いたとき、すでにケンヂの姿が見えない。

 ケンヂはマルオとヨシツネの会話を聞く前に遁走している。だからこの後で夜の神社にいったとき、初めてマルオのバッヂに気付いたのだ。この即決即断がどういう結果を招くか思いもよらなかったであろう。


 ヨシツネを誘ってマルオは原っぱに向かう。他の子供たちも散り始めた。彼らはお面の子が誰なのか、知らないのか興味がないのか。カツマタ君は伏せたまま泣いている。少し落ち着いた感じのババは彼に立ちなと命じ、「名前は? なん年なん組?」と尋問している。

 ここでババが「名前は?」だけにしておけば、われわれは彼の名を確実に知り得たかもしれない。しかしこのとき野次馬からきた返事は、後のほうの質問に対する「4組」という答えだった。


 そのすぐあとでフクベエは「こいつ5年4組だよな」と山根に語り、山根が頷いている。最初に「4組」と言ったのも多分フクベエであり、学年を付けなかったのは同じ学年だったからだろう。そのあとババに分かりやすいように5年を付け足したのだな。

 フクベエと山根は本当のことを言っていると思う。どうみてもババから先生に言いつけてもらいたい風情だからだ。カツマタ君のクラスについては、かつてヴァーチャル・アトラクションの中だが、ケロヨンとモンちゃんが2組か5組かと言い合っていたが、ケンヂの隣のクラスで4組だったのだ。

 
 冤罪に泣く少年は「僕はやってない」と繰り返す。それを見下ろすフクベエが「どこからか声がするけど、見えないなー」と本人に聞えよがしに言っているのは悪質な仕打ちと呼んでよかろう。山根もお追従でマネしている。救う神なし。

 彼らは同じやり取りをもう一度繰り返し、フクベエは山根に「こんな悪いことしたんじゃ死刑だな」と少年のすぐ脇に立ったまま言う。がきデカの「死刑」がギャグとして流行るのも、バカボンのパパが「観ない奴は死刑なのだ」と言ったのもこの何年もあとのこと。ここでは笑いごとではない。


 反応すらしなくなったカツマタ君を見下ろしながら、フクベエは「おまえは今日で死にました。」と宣告して振り向き去った。後を追う山根が「きゃはは」と笑う。彼らの後ろ姿を見送るのはお面を持ったババだけのようで、カツマタ君は一人、身動きもできないでいる。

 こんな目に遭えば誰の心にも悲惨な思い出として残るだろう。だが同じ出来事を経験しても、その認知は人により異なる。紙だけ置いてバッヂを持ち去った自分を責める人もいよう。ババに対する恨みを抱え続ける人もいるだろう。誰よりこの日、残酷なことを言ったフクベエを憎む人もあろう。


 ところがカツマタ君は違った。この有り様ではケンヂが来てすぐ去ったことすら気づかなかったはずだ。漫画ではケンヂが万引きしたとき見ていた人はおらず、少し離れたところを自転車で通りかかったマルオがケンヂの逃げ去った理由を知らなかったのは、第22集でバッヂやジジババの店を懐かしがる彼の言動からみて明らかである。

 したがって私としてはやはり、カツマタ君はケンヂの万引きの一部始終をどこかで隠れて見ていたと推測するのが一番しっくりくる。そしてその後、ケンヂが名乗りも上げずお詫びも言いに来なかったということは、下巻のバーチャル・アトラクションの展開で明らかだ。


 無実の罪を着せられて辱められた悲惨な体験から生じた憎悪は、脇役のババやフクベエをその対象とすることなく、実行犯のケンヂ一人に向けられた。それにしても何十年もの間、日本人の恨みが続くというのは稀有のことではないか。今でいうPTSDか? この路上で敗れし者の暗く長い旅が始まる。

 このあと一体何が起きたのか。言い伝えによれば、カツマタ君はフナの解剖の前日に亡くなり、幽霊となって夜の理科室に出るようになったという。この噂は大人になっても基地の仲間たちが共有していたほど広く信じられ、チョーさんの耳にまで達するほどの学校伝説になった。


 映画「20世紀少年」では、このあと彼は不登校になったとされている(不登校や登校拒否という言葉は私が子供のころあまり使われておらず、学校嫌いと呼んでいた覚えがある)。まずは分かりやすい筋立てだ。「フナの解剖の前日」は作り話の尾びれ背びれか。

 だが漫画「20世紀少年」では、私が読んだ限りでは具体的に何が起きたのかは永遠の謎になっている。いつまでたっても生きていくのが辛いほどの深い心の傷が残ったことだけが示されているのみである。だが、ではなぜ「あそびましょー」なのだ...?


 もしもチョーさんがメモに書いた複数の”ともだちⒶⒷⒸが、フクベエとカツマタ君とサダキヨを示しているならば、三人ともイジメの被害者となって人生という道を踏み外したと言ってよい。

 イジメで本当に怖いのは、殴られたり貶されたりすること自体よりも、仲間外れにされることではないかと思う。だからこそ「絶交」は極刑になったのだ。「あそびましょー」は切実な訴えだったのかもしれない。サダキヨの回顧談にあったように、二人のナショナルキッドが本当に遊びたかったのはフクベエではなく「あのケンヂ」であった。



(この稿おわり)






マンションの最上階より、夕暮れの富士山
(2014年1月12日撮影)





 私だけが貴方の妻 丈夫で長持ち致します
 てなこと言われて その気になって
 女房にしたのが大間違い 炊事洗濯まるで駄目
 食べることだけ三人前 ひとこと小言を言ったらば
 プイと出たきり ハイ それまでョ

       「ハイ それまでョ」    ハナ肇クレイジーキャッツ


































.