一行は「ライフショップ マルヤマ」という万屋の子孫のような店を見つけた。この場面はポップさんとペーターが
登場する2014年のシーンと良く似ている。店は荒らされていたが、幸い食べ物や飲み物もそれなりに残っており、一行の一人がお金を払った。普通の千円札だから、友路通貨の発行前である。
怪我人の倉田さんとオッチョは外で待ちながら、会話を交わしている。「落合さん、お子さんは?」と倉田さんに訊かれた落合さんは「いや...」と受け流すように否定した。辛い質問なのだ。倉田さんに悪気はなく、彼は東京に残した妻と娘の安否が分からないため、話の皮切りに相手の家族のことを尋ねただけ。
ニット帽の青年にビスケットを勧められて、倉田さんは御礼を述べ、「最近の若い奴はなんて口癖で言ってたが、改めなきゃならんね」と述べている。ちなみに、なぜか私の周囲にいる最近の若い奴は能力・人柄において立派な人が多く、中高年の伝家の宝刀であるべき「最近の若い奴は」を平然と使えないのが悔しい。
ニット帽は斥候を務めて駆け戻り、貴重な水を勧められて遠慮している。一行が東京に戻ったら飲みに行こうと談笑しているのを見ながら、倉田さんは「こんな世界になっちまったけど、こうしてみんな助け合ってる。」と言った。オッチョは「ええ」と同意。
倉田さんは続けて「こんな世界だからかな」と歎じたが、今度はオッチョも無言で、信州の遠い山並みに夕日が沈みかけているのを眺めている。彼にしては穏やかな表情をしている。一行が今日はこの辺で休もうと座り込んだとき、オッチョはレイ・ブラッドベリ風にいうと、何かが道をやって来るのに気付いた。
「何か来る」とオッチョは言った。始まったのだ。絶望が。その絶望は小型のバイクに乗って田舎道をやってきた。一行の一人は「郵便配達?」と訝っているが、運転手はスーツケースこそ持っていないものの、防毒マスクのセールスマン(セールスマンも古い言葉になったな)の井手達である。配達人は「山内政二さん、いらっしゃいます?」と尋ねた。
メガネをかけた男が自分を指さしたのを見て、絶望配達は「東京都板橋区の山内政二さん?」と質問を投げかけた。新潟の施設からに出てきたという山内さんは「はい」と肯定している。変だ。
彼がここにいるのをバイクに乗った男がなぜ知っている? 得意の盗聴器か。それに、山内さんが受け取った小包の宛先は住所こそ板橋だが、宛先人の名前は苗字が三文字の「何とか念」さんとしか読めず、明らかに山内政二さん宛てではない。
これまでサナエやカンナや中川くんの発言に出てきたように、ワクチンは2015年万博の開会式に出席した者にのみ配られているらしい。”ともだち”が、そのようにした意図は何か。まさか御礼やお祝いではあるまい。そんなふうに礼儀を重んずる者とは考えられん。
多分こんなところだろう。”ともだち”は人が何人死のうと構わないのだが、自分が「復活」したのを目撃した生き証人はある程度は残したかったのだ。だから、開幕式の参列者がワクチン配布先に選ばれたのである。ただし、サナエたちを擬古の東京に強制移住させて充分の人数を確保した段階で、あとは用無し。壁を巡らせて交通を遮断した。
この先々で分かるように、壁の外は適当にあしらっている。むしろ、ワクチンの争奪戦で殺し合いが始まるのを楽しんでいるかのように思える。本当に嫌な性格。ちなみに、”ともだち”が東京を60年代風に変えたのは、単なるノスタルジーだろうと片づけてきたのだが、もっと酷い目的によるのかもしれない。
歴史は人間が持つ悪の発露の宝庫でもある。ナチスによるユダヤ人のジェノサイドを支えたのは優生学だけではない。ヨーロッパのユダヤ人は裕福だ。ナチは彼らを強制連行したあとで、その家屋財産を没収した。アウシュビッツで亡骸から金歯まで抜いていたらしい。
これは国家による強盗殺人と呼んでよかろう。なぜそんなことをしたかというと、戦費調達のためと言い切って構わないのではないか。第一次世界大戦でドイツは敗れ、イギリスやフランスやアメリカや日本に植民地を取り上げられて、途上国を収奪できなくなった。多額の賠償金も課せられた。
かくて標的にされたのがユダヤ人だった。私はオランダで、アンネ・フランクの隠れ家を訪ねたことがある。知的で多感な娘まで容赦なく殺したのは、憎かったからではなく、単に邪魔だったのだろう。戦後、西ドイツはイスラエルに多額の損害賠償を支払っている。幸いドイツは立ち直り、ポップさん夫婦を生んだ。
”ともだち”も似たようなことをしたのではないかな。家屋財産を取り上げ、東京で囲い込んだ人々以外は、もはや単に邪魔なのだろう。防毒マスクの男は、「万博開会式にいらっしゃったんですね。おめでとうございます。」と無造作に言い捨てて去った。こんな状況で、ワクチンを渡したらどういうことになるか。
ずっと前に刑法第37条の緊急避難を話題にした覚えがある。例えば、そうしないと自分が生き残れないならば、人を殺しても無罪になるという、古代ギリシャから今日に至るまでの西洋文明の考え方である。
しかし無罪は無実と違う。人殺しは人殺しである。これから始まるバトルロイヤルの勝者は、決して幸せな人生を送ることなどできまい。このまま書き終えるのも後味が悪いのだが、この箇所ばかりはどうにもならない。せめて次回はちょっと一休みして脱線します。
(この項おわり)
大雨の日比谷にて (2012年11月26日)
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