おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

人として?  (第1336回)

 中学三年生のとき、休み時間に同級生から、海援隊の「人として」という歌は良いぞと言われた。変なタイトルだなと思ったのを、はっきり覚えている。それに当時はレンタルCDがなく、一曲ずつダウンロードするなどという芸当もできず、結局、知らぬまま今日に至る。ちなみに、この海援隊は坂本さんのではなくて、武田さんのほう。

 しかし最近はネットで、この「人として」を含む書き込みをよく見かける。どうにも気に入らない。好みの問題だから放っておいていただきたいが、そのかわりこちらも文句を言えない。でも、ちょいとばかり、嫌いな理由を言う。


 典型例は、凶悪犯罪や反社会的な言動を示したと報道された者に対する「人として許せない」という決まり文句だ。第一に、そう書く人も言う人も、また、書かれたり言われたりする相手も、傍からそれを聞いたり読んだりしている私ほか第三者も、疑う余地なく人間なのだから、わざわざ人としてと断るまでもない。

 それはともかく、この「人」が自分なのか相手なのか判然としないから落ち着かない。普通、私たちが「○○として」という言葉を添えるときは、「納税者として、そういう公金の使い方は認めがたい」といえば○○は自分であり、「知事として、どのように責任を取るおつもりか」と糾弾するときは相手を指す。ちゃんと文脈で使い分けができている。


 しかし、人として許せないというのは、どっちだ。1954年の映画「ゴジラ」には、「一個の人間として許すわけにはいかない」という学者のセリフが出てくる。このシーンでは、一個の人間とは明らかに自分のことなのだが、どうも、人として許せない人は、そういう意味・立場で使っているように感じられない。

 ほかに「人として、どうよ」という2チャン的な用法もあるが、これと同様で、おそらく相手のことを指し示しているように思う。人間のくせにそんなことをするとは許せないということなのだろうか。人間だからこそだと、チャチャを入れたくなる。それに、人でなしとか、鬼畜にも劣るとか、もっと適切にして鋭い表現があるのに残念なことである。

 この「人として」が、改正草案の第13条に出てくるから、大抵の人にとっては、どうでもよいかもしれない言葉遣いに、ああだこうだと申しております。そして、これに限っては単なる用語の問題ではないかもしれないので、今日はしつこい。例によって、現行の条文と比べるところから始める。


 【現行憲法

十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


 【改正草案】

(人としての尊重等)
十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
 

 まず、前回まで話題にした第12条と同様、ここでも現行の「公共の福祉に反しない限り」が、「公益及び公の秩序に反しない限り」に置き換えられている。幸福を求めることさえ、公の利益や秩序に劣後するのだ。よほど不幸で且つ先行きに望みがない人でなければ、他者に対してこんなことは言えまい。公しか頼るものがない人たちだ。

 その前に、「生命」に対する国民の権利も、同じ扱いである。幸福かどうかは主観が常に関わるから一人一人、違う意見があっても構わないが、生きる権利に主観も何もない。しかし、この点に関しては、現行憲法の訳に限界があるように思う。


 というのも英語版の第13条は、「Article 13. All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall...」(後略)となっており、このライフは生命というよりも、法律用語的ではないかもしれないが、「暮らし」のほうが、私にはしっくりくる。

 つまり、他の人の暮らしを踏みにじってまで、我がまましてはいけないという意味であって、自己と他者の生命の優劣を決めているわけではあるまい。ともあれ、結論は同じで、改正案は気に入らない。


 さて、肝心な「人として」は、現行の「個人として」の書き換えとして改正草案に登場する。言うまでもなく、個人というのは人間の集団と対比させて使う言葉であり、だからこそ「享有」という個人が生まれながらに持つものとして、権利や自由を定めているのが現行の日本国憲法である。

 これが「人」になると、輪郭がぼやける。辞書的な意味でも、手元の辞書は11種類もの解説があり、人類、他人、一人前などなど、多種多様であり、そのどれを指すのか分からない。でも、わざわざ言い換えるのだから、個人ではないはずだ。

 ここでの「人」とは、金八先生を真似るとすれば、人と人はお互い支え合っているという、聞こえがいいだけのボンヤリした集合体のごとし。やはり中学三年生ぐらいなら受けそうだ。中三に失礼かな。そういえば、先日ここで記事にしたとおり、個人を無視すると全体主義につながりかねないと、星野先生も書いておられた。


 英語版も「個人として」の箇所は、「as individuals」と明記しており、個人に属するものであることが歴然としているし、個人が尊重されてこその民主主義だろう。投票用紙も税金の通知書も、私個人に来る。

 ここまでくると、国民の権利が多すぎるという漠然とした理由では説明しきれず、要するに、軍隊を持つと第二章で宣言した以上、必然的に第三章は広範に被害を被る。軍とは「公の利益と秩序」のための典型的な組織だ。個人行動を許せなくなってくる。


 ちなみに、現行憲法はもう一箇所、「個人」という言葉が出てきており、すわなち第24条の婚姻に関する定めに「個人の尊厳と両性の本質的平等」という表現がある。改正草案は、こちらのほうは個人のままなのだが、事務ミスですか。さすがに、婚姻は個人しかできないからか。

 また、第30回で引用したように、民法にもこう書いてある。「第二条  この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない。」。民法第二条が対象とする範囲は、婚姻だけではない。どうするつもりなのだろう。


 ののしってばかりで終わるのも後味が悪い。いま、とても良い本を読んでいます。岩波現代文庫の「イシ」という本で、内容は副題が示すように「北米最後の野生インディアン」の伝記である。読むつもりになったのは、この本の著者と、その基礎となった研究をした人類学者が、私の好きな「闇の左手」のル・グインの両親だからだ。

 イシというのは、その伝記が著された人の名(固有名詞)ではなく、彼が属するカリフォルニアン・インディアンのヤナ族の言葉で、「人」を意味する。ヤナを含むインディアンの諸族には、自分の名はもちろん他者の名も、知らない人には伝えないという厳しい文化の掟があり、ここまでは東洋の諱と少し似ているが、生前に限らず死後も同様であるという。


 このため、彼は親しくなった人たちにさえ、生涯、自分の名を伝えなかったそうだ。しかし、移動の自由を憲法で守らないといけないような文明社会においては、人はまず相手の名前を求めるし、うっかり忘れると後で非常に困る(お互いさまなのだが)。このためやむなく、周囲は彼の氏名を「Ishi」(人)とした。間違いではないし。姓と名を併せてイシさんなのだ。

 幸い写真が何枚も残っている。特に、笑顔の彼は、白人よりも黒人よりも、私たちに近い血の持ち主であることを疑いようがないほど懐かしい。うちの先祖も、石器時代には彼の前半生と同じような暮らしをしていたのだ。


 彼を迎え入れる立場となった学者や関係者にとって、もちろん彼は特別な存在になった。しかし、きっと彼に言わせれば、自分は特殊ではなく、一個の人間だと言っただろうし(ヤナ族には人類一般について、別の言葉がある)、著者もイシを「一個の人間」と呼んでいる。

 間違っても、彼も彼の一族も、天上天下唯我独尊なんて言わない。ともあれ、イシがどのような魂の持ち主であったかについては、この本をお読みいただくのが何よりである。






(おわり)






ねぐらに戻るカラス、銀色の雲。
(2016年8月25日撮影)

























 他人を利用したり 他人をいびつにしたりしない
 そのかわり自分もいびつにされない
 一個の人間でありたい  − 武者小路実篤























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