おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

なぜ最高法規か  (第1382回)

 言うまでもないだろうと言われそうなタイトルを付けた理由は、これから書きます。このあたりは改正草案の章も条も、番号がずれているのでややこしいが、いずれにせよ「最高法規」という名の章における冒頭の条文が今回の話題。

 いまの憲法は二か条ある。改正草案は、そのうち一つを削除したため、一か条しかない。この細工が水掛け論を呼んでいる。


【現行憲法

第十章 最高法規
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
二 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。


【改正草案】

第十一章 最高法規
憲法最高法規性等)
第百一条 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
二 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。


 上記のうち、改正草案が残した第101条案は、現行の第98条と一字一句、違わない。新聞等によると、憲法と国際条約は、どちらが優先するのかという面倒な問題について、専門家でさえ意見が分かれているらしいが、そういう課題は手に余るので、ここでは第一項も第二項も大切であるということで逃げる。

 すでに多くの人が指摘しているとおり、第97条は至って重要な内容であるにもかかわらず、次に掲げる現行の第11条と同じ中身であるという理由で(私が知るところでは、それだけの理由で)、重複を避けるため削除したとのことだ。


第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 ご覧のとおりで、全く一緒というわけではない。例えば、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ」という、やや文学的であるが、重量感のある表現が消えてしまう。邪魔なのだろう。


 この第11条は、「第三章  国民の権利及び義務」において、総論中の総論として出てくる。だから、そこにあること自体は、改正草案も異論は見せていない。ただし、すでに見たように、文章を単純化している。邪魔なのだろう。

 では、逆に昭和憲法は、なぜ類似の条文を、改めて「最高法規」の章の筆頭に置いたのだろうか。重複していることは、GHQも当時の国会議員も気づかなかったはずがない。中学生の私でも、これはまた出てきたなと思った記憶がある。重要だからだろうなと感じた。それはそれで、そのとおり。


 しかし、まさか重要だから繰り返したというだけではあるまい。それがここに置かれている理由は、第97条をそのまま繰り返すと、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」からこそ、この憲法最高法規だと言っているのだ。

 これに対し、改正草案は「憲法が一番偉い」という単純事実関係のみ謳っているに過ぎない。仮に私が良心ある裁判官として、憲法訴訟の法廷に座ったとしたら、違憲かどうかの判断基準は、この第97条、ひいてはそこに言及されている基本的人権の諸条項に抵触していないかどうかを最優先するというのが、いまの憲法の主張であるに違いない。国家権力に擦り寄らんとする者が、「人権派弁護士」を嫌う所以である。

 それにしても、改正草案は不出来であると、ここで散々、悪口を言って参りましたが、とにかく「一般人に権利や自由を認めてなるものか、この野郎」という点に限っては、素晴らしく首尾一貫、一気通貫している。



(おわり)




口直し。故郷にて。 (2017年9月21日撮影)











































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