おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

おおやけ  (第1335回)

 
 第12条で筆の運びが停滞しています。改正草案が不気味だし、良く分からないところも少なくない。第9条でも同じようなことを書いていたが、少なくとも軍隊を作るという本音ははっきりしている。だが第12条やそれに続く幾つかの条文案は、なぜこういう変更をしたがるのか、見当がつかないから気味が悪い。

 どうやら、我らが言われ続けて来た「平和ボケ」とは、戦争の恐ろしさを知らないだけではなく、権利と義務の有難さや怖さが実感できないというのもありそうだ。もう一度、現行憲法と改正草案の第12条を並べる。


  【現行憲法

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。


  【改正草案】

(国民の責務)
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。


 前回の話題「公共の福祉」が、ここで「公益及び公の秩序」に変えてある。続く他の条項にも同様の細工があり、それぞれ話題にするが、ここでは先ず、初出なので総論的に考える。わざわざ何か所も変えているので、両者の意味は違うはずだ。まず、「公」と「公共」は同じなのか違うのか。

 いずれも我が広辞苑には、「おおやけ」という意味が載っているので、共通するところはある。「パブリック」だ。違う点もあり、「公共」は「社会一般」であり、「公」は多義だが、まず「朝廷。官府。国家。」とあり、最後のほうに「忠犬ハチ公」の用例まである。ともあれ、公方様とか御公儀などの例にあるとおり、「公」は権力機構も指す。


 改正草案は、その数々の改正案項目の実例からして、このうち「公」をもって「国家」を意味すると理解しておいたほうが、無難であると思う。「公共」のほうは、地方公共団体とか、公共料金とか公共事業とか、テレビ受信機が珍しかった時代の公共放送とか、ある程度、関係者や利用者に範囲・制限がある場合が多く、しかし国家の意味では使うまい。

 なお、「公」の字を国が使う時は、国家と同類の意味にもなるというのは、例えば内閣府のサイトでも推測できる。「公文書等」と「国の行政文書等」は同義らしい。
http://www8.cao.go.jp/chosei/koubun/


 さて、交益とは、複数の辞書において「公共の利益」とあるが、この調子では権力装置の利益ということだろう。この改正憲法は、随所に経済に対する関心がみえると書いたが、利益という言葉も、必ずしも金銭的なものだけではないにしろ、いかにも経済用語である。

 「公共の利益」という言葉が出てくる法律がある。通称、「独占禁止法」。その反対語は、「私的独占」である。如何にも正義の味方らしい法律名であるが、現実には幾多の寡占を容認しており、これをしては駄目というルールであるよりは、ここまでなら大丈夫という感じがする。個人情報保護法も、同じ匂いがする。

 要するに、私的に(個人事業や営利企業が)国の経済を乱すなということなのだろうが、三四社ぐらいの寡占なら、闇カルテルを組まなくても、すぐに相手の価格や商法は分かる。悪い例に挙げて申し訳ないが、何かと話題になるケータイや航空の業界が典型だ。新規参入がおそろしく難しい。


 かつて私が働いていた業界も過去そうだったが、規制による保護、天下り、政治献金といった「公益」が確保されているパラダイスが存在する。あとから出てくる職業選択の自由や勤労の権利も、これら公益に反してはならない、ということらしい。

 私は単なる妄想でこんなことを書いているのではなく、みなさんご承知のように、改憲を目指す方々は、国民には義務が三つしかなく、その割に権利が多すぎて著しくバランスを欠いていると公言しているのだから、間違いないと思う。納税と勤労の義務だけで、みんなヘトヘトなんだが、項目数で比較する知能しかないらしい。


 なお、「公共の利益」と似た言葉は、世界史に残る文書に出てくる。フランス革命の「人権宣言」の、しかも第一条。仏語を読めないので、幾つかのサイトから大意を拝借すると、「人は自由と権利において平等なものとして生まれ、生きる。社会的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる。」というものだ。

 フランス革命が、そう言っているのなら、改正案も良いではないかと思うでしょう。私は高校時代、桑原武夫さんの「フランス革命とナポレオン」(中公文庫「世界の歴史」)を、本がボロボロになるまで読んだ。

 人権宣言は1789年に、軍人貴族のラファイエットが起草したもの。まだ革命の初期で、ルイ16世は生きているどころか、王権も停止されていない段階の公方様なのだ。だから、公共の利益に反しなければ、差別は可と言っている。


 さて、次は「公の秩序」。これは、現行憲法にも使われている用語です。第82条第2項。「裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。」(後略)。

 また、原語で何と云っているか定かではないが、今回のリオデジャネイロ・オリンピックで、イスラム教国の女子選手のユニフォームが、「公共の秩序」に反するとその国の中で騒動になっていると報道された。これは異文化のことだから良し悪しの問題にしてはいけないが、要は機能や嗜好よりも、統制が優先する。


 さらに、これは前回もお世話になった民法にも出てくる。「公序良俗) 第九十条  公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」。

 民法が、そう云っているのなら、良いではないかと思うでしょう。でも、最後は「無効とする」となっていて、民事裁判になったら、負けまっせという警告だ。法律家には叱られるかもしれないが、極端な言い方をすれば仲間内や一人きりで、こっそり楽しむ分には裁判も無効もない。でも、憲法に改正案のごとく書かれたら、即、濫用であり、禁止令に触れる。

 秩序なんて、いかにも警察国家が好きそうな言葉だ。中学校の校則レベルの憲法になる。公序良俗に反するかどうかは、民事裁判では裁判官がお決めになるが、改正草案は裁判に限定した話ではないから、権威がこれは駄目だと法律で決めたら最後、歩きスマホも、国会での居眠りも違法となる。十八史略は語る。帝力何ぞ我に有らんや。


 今日は長い。まだ、あるのだ。「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」とは、一体何か。このうち、権利と義務は法律用語としてよく使われるので、専門家の意見を聴きたいが、少なくとも必ず伴うものではない。私には投票権があるが、法的な投票義務はない。無論その判断の結果は、受け入れる責任があると思っている。よく「しまったなあ」と思います。

 日常用語では更に明確で、私には昼食をいただく権利があり、時間とお金の許す限り、好きな時に好きな食べ物を選ぶ自由があるが、昼食を摂る責任も義務もない。絶対に伴わない。この字句は先ほどの、憲法に国民の権利や自由が多すぎるという感情論の発露なのだろう。世に濫用者が少なくないことは認めざるを得ないが、全員にこれを押し付けるとはGHQか。

 なお、改正草案には、他にも「公の秩序」が出てくる箇所がある。第9条の二「国防軍」において、前後を略すが「公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。」となっている。 悪さをすると、軍隊が来るのだ。私が小僧のころは、「おまわりさんが来るぞ」とのことだったのだが。

 



(おわり)






なぜか近所に二宮金次郎さん。歩き勉強は良いのかな。
(2016年4月10日撮影)











































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