おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

法の下なら平等  (第1337回)

 お盆の季節に余力があったこともあり、本サイトはぶっ続けに更新し続けて来たのだが、だんだん忙しくなってきたので少しペースダウンしてきました。やる気が失せたわけではない。ここで、ちょっとここまでの検討を振り返ってみる。

 いま憲法を改正しなくてはならないという主張をしている人たちの論拠は、私なりに大別すると二つで、(1)現行憲法は占領軍に押し付けられたものであり、独立国が自主的に作ったものではないという成立過程の問題と精神論、(2)この憲法下の諸制度すなわち「戦後レジーム」は、現代日本に適さないという法制度の内容そのものの問題。


 私は(1)と(2)が一緒くたにされるのは、必ずや避けるべきだと考えている。例えとしては今一つだが、変な宗教に押し売りされた壺だから、偽物に決まっているというようなものだろう。この場合、値段は割高だろうし、怪しげな霊力はまだ現れていないとしても、壺自体の価値は、買わされ方と直接の関係はない。ちょうど手頃で生活の役に立っているなら、それでよい。

 というふうに、戦後70年余り、日本国民はそのままにしてきた。これが自主的ではないから偽物だというなら、国民はもとより、その殆どの期間において政権与党だった自由民主党が、結党以来の悲願だと言いながら憲法改正の発議をしようとさえしなかったというのは、深刻な怠慢ということではないか? 議席も欲しかっただろうが、でも舌をかまないようにしてください。


 ついては、誰も私の提案など取り上げないだろうが、まずは(1)だけ片付けたらどうだろう。きっと一年やそこらで改憲の議論や準備は終わるまい。その間ずっと、押し付けられただの、貰い物にしては悪くないだのと議論していても不毛である。

 国民投票をやればよい。自主憲法ではないからという理由で改憲すべきか否か。これらで有権者過半数の賛意を得られなかったら、その時点でその時点の国民が認めた自主憲法となる。あるいは次の国政選挙において、今度は逃げずに、第一の政策課題として改憲を挙げて世論を問うても良い。


 戦後レジームについてはどうだろうか。これまでのところでいうと、第一章の天皇では「元首」、第二章の安全保障では「国民軍」が最大の新レジ―ム案であることは、誰も異論ないと思う。これらは、多くの人から既に指摘されているとおり、なんていうことはない、明治憲法と同じ。

 この改正草案は、現代日本明治憲法時代に逆行した(あるいは、理想として逆戻りすべきである)と考えているらしい。なるほど一つの見解であり、そうならそうと、はっきり言っていただきたいし、明治憲法時代も長いから、その「どのあたり」をお手本にしているのかも示してほしい。


 夢物語はこの辺にしておいて、第三章に戻る。自由と平等。ブルジョア革命における不動の原理ともいうべき概念が出てくる。自由については、すでに第12条と第13条で見てきた。一つ言い忘れたので補足する。

 第12条の「この憲法が国民に保障する自由」と、第13条の「生命、自由及び幸福追求」は、日本語だと同じ自由だが、英単語は別である。第12条は「The freedoms and rights guaranteed to the people by this Constitution」にある「フリーダム」である。


 第三章に出てくる言論や学問の自由は、やはりすべて個々のフリーダムであり、それらをひっくるめて第12条が「この憲法で保障する自由」と述べている。「○○の自由」というのが、ここで使うフリーダムの意味であるらしく、つまり選べるし、選ばなくてもいいし、邪魔しないし、邪魔されないということだ。日常用語では、こちらのほうを良く耳にする。

 他方で、第13条の自由は、「liberty」である。ここで辞書的な意味の整理はしないが、併記されている生命や幸福の追及と同様、抽象度の高い概念だ。先ほど書いた「自由と平等」の自由は、西洋の諸文献からしても、こちら「リバティ」のほうだろう。ある英英辞典では、社会的抑圧から解放された状態というような意味が載っている。


 アメリカの「自由の女神」は、同時多発テロの前に登ったことがある。あれは「Statue of Liberty」と呼ばれており、つまり女神だとは言っていない。実際、私はあのお顔が女には見えないんだな。ともあれ建設当時、建国百年ごろの米国は、自由と平等を巡る同国史上最大の内乱、南北戦争のさなかにあった。フランスも心配したのだろう。

 明治維新も、明治憲法も、これら先進国の恩恵を受けている。身分社会が当たり前だった当時の日本に、平等という分かり辛い価値観が入って来た。司馬遼太郎が複数個所でこれを上手く表現している。民主主義とは、将軍様も熊公も平等の世の中だ。いいねえ。この「平等」の初登場が、現行憲法第14条である。第3項まであるので、まとめて改正草案とともに掲げる。


  【現行憲法

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。


  【改正草案】

法の下の平等
第十四条 全て国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 
 主な変更点は二つ。第1項の改正草案に「障害の有無」が入っていること、および第3項では現行憲法の「いかなる特権も伴はない」が、改正草案で削除されていること。後者は何を考えているのか、全く不明。表題の「法の下の平等」が泣く。少なくとも、法的特権は与えてはならない。「栄典」のオマケなんだから、花束ぐらいで十分だろう。

 第1項の「傷害の有無」の追加自体に異論はない。ただし、現行も含めて、全体としてこれで良いのかと思う。その理由を述べる。差別を禁止するにあたり、現行憲法は「人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により」と明確に限定しており、改正草案がそれに「傷害の有無」を付け加えた。なお、差別禁止の対象に加えるということは、もう特別な待遇はしないという意味かもしれない。

 
 他方で、世の中にある差別の原因は、これだけか。年齢は? 出身地は? 学歴は? ITリテラシーとやらは? 無限にあるし、更に増えるだろう。差し支えないものだけ並べるくらいなら、「全ての国民は法の下に平等」だけで必要十分。現実は不平等だらけだから(なぜ、あのおっさんが高給取りなのか、とか)、せめて法の下では熊公だけにしよう。

 そのあとの、「政治的、経済的又は社会的関係において」も、意味不明だし不要だ。平等はこの世に私一人となったら問題にならず、あくまで二人以上いる世間での困りごとである。関係性とは不可分なのだ。社会的関係と広く言い切った段階で、それ以外は無いはずだ。あるなら、書いてほしい。例えば、軍事的とか。


 第14条第1項は、「全て国民は、法の下に平等であって、差別されない。 」でよい。マグナカルタも、合衆国憲法も、あっさり「平等」と書いて済ませている。余計な修飾やら条件やらが付くこと自体、平等から遠ざかる。かくて、全ての日本の法律は、国民を平等に扱っているかどうか、検証されることになる。ちょっと大変なことになるような気がする。

 なお、リバティとは、上記のごとく有難いものであり、その形容詞であるリベラルも、本来は偏向した思想信条から自由な世の中を理想とするという意味であるはずだ。少なくとも、この私はずっとそう思ってきたし、これからも変わるまい。そして、自由民主党の「自由」も英語の表記では、目の錯覚でなければ「リベラル」である。リベラル政党なのであった。





(おわり)






夕焼けの空を君は見てるか
(2016年8月25日撮影)











































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