おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

情けは人のためならず  (第1266回)

 第24条の話題はまだ尽きていない。今日は第25条も関連する。まもなく出てくる国民の三大義務は、いずれも「国民は○○の義務を負ふ」という表現になっている。憲法の本質的性格からして、国民が国民に義務を負わせていることになっており、以前、私はこれを、そうしないと国が立ちいかなくなるからだと書いた。

 例えば、主権を委託する国家で働く人たちの給与も出ないのでは、我々が困ることになるからだ。それに現実の課題として、憲法は国会を通過しないと成立しない。彼らの合意を得る最低限の必要性は満たさなくてはならない。ここまでは、どの国の憲法も事情は同じはずで、納税の義務は明記されているだろうと思う。無いとしたら、武力が物を言っているのだろう。


 第24条に改正草案が追加した「家族は、互いに助け合わなければならない。」という新規の条文箇所は、以上のような必要性に乏しい。もしも、国の健全な運営や発展に家族の助け合いが重要で不可欠というのであれば、観方を変えると、助け合いたくても家族がいない人は、肩身が狭い思いをするかもしれない。ただでさえ他人に厳しい世の中になっている。

 実際、勤労と納税の義務については、持病や障害や老齢で働きたくても働けず、かえって社会福祉社会保障の世話になっている方々が大勢いる。ネットでは匿名の誹謗中傷の対象として、こういう年金生活者や生活保護の受給者が攻撃されている。先ずは憲法第25条をお読みいただきたい。生活苦の救済は、国の仕事だ。だから消費税の増税も、社会保障のためといわれて甘受したではないか。


 その国が、第25条の義務から逃れようとしているのではないかという疑惑が生じている。第24条の「家族は、互いに助け合わなければならない。 」という道徳律が、これら社会保障社会福祉の負担を、一部、民間に無償で払い下げしようとしているのではないかという疑いである。「自己責任」が無理はひとは、家族責任ということだ。

 これに備えるかのように、政府とマスメディアは、ここ十年かそれ以上、年金、医療、介護に関わる国家・地方公共団体の財政が、危機的状況にあると声を大にして叫んできたのは周知のとおり。われわれは疑おうにも材料がない。かつて一度、「年金問題」のとき、公的年金の財政の仕組を解明しようとして政府の資料とにらめっこしたが、余りに複雑で断念した。


 国家財政が借金まみれと言われている。とりあえず政府広報や報道が正しいとして、では、今後、経済も人口も奇跡的な回復をしない限り、近い将来に国の財布が潤うことはないと思うので、ではどうするかというと、昔のように周囲の人たちで面倒をみよという代替案が出てきておかしくない。そうしたら案の定だ。

 年金制度は恩給という名で、まずは兵隊さんへの生涯報酬として始まった。恩給は軍隊を持つ他国でも現役の制度だ。また、公務員対象の共済が恵まれているのもご承知のとおり。お国に尽くさない下々は、もともと扱いが悪いのだ。そこへもってきて、家族で解決せよという命令を下そうとしている。


 社会保障の中で、介護保険は比較的、新入りである。正直言って、これが始まったときは驚いた。日本もそういう社会になったのだと思った。私が子供のころの田舎は、周囲が要介護者や重病人や破産した人の面倒を、可能な範囲でみていたのは確かである。

 妊産婦や赤ん坊の世話も同様だった。ただし、家族だけで面倒をみていたわけではない。親戚や近所や同級生の親など総がかりで、お互い様だった。よく熱を出して寝込んでいた幼いころの私は、両親・祖父母が働いている時間帯は、連絡がつく家に「たらい回し」のごとく預けられ、放置され、寝ていた。

 今にして思えば、それだけでも有難いことである。運が良かった。そういう地元の付き合いに恵まれなかった人たちは、家出だの心中だのと、私の身の周りでも珍しくはあったが実際に起きたし、ニュースで盛んに報道されてもいた。強盗や空き巣が多かった。多くの人が自分たちのことで精一杯だから、あとは金に余裕のある人が、国を税金で雇って、お任せしていたのだ。


 この金に余裕のあるはずの人々が、いま憲法を変えようとしているグループに少なからず含まれているはずだ。かれらは自分の金は出したくないし、かといって日本国がデフォルトになったら、IMFも恐くて整理解雇のおそれあり。かくて増税に加え、昔ながらに家族の人力を狙った物納の租庸調に切り替えようとしている。

 政治家は自分の利害が絡まると、途端に大げさに騒ぐのが古今東西の実情だろう。福一の原発事故後、われわれは深刻な電力不足に陥るはずだったが、今年も関東で足りなくなったのは夏場の水だった。先ずは危険をあおるというのが、ポピュリズムの常道なのだろう。


 社会保障・福祉分野における政府の撤退方針については、傍証なら沢山ある。特に人口の多い高齢者が標的にされている。ご存じのように、公的老齢年金はジリジリと減り始めている。介護の現場は過重労働と人件費不足で、離職や休業が増えっぱなしだというのに、こういう制度事業は予算が増える代わりに、要支援などの救済する対象を現実に狭めつつある。

 かといって、やり過ぎると票を失うから、手心を加えていることだろう。それにしても、一方で輝く女性だのイクメンだのと持ち上げられて、頑張らないといけない気分に追い込まれている若い層は、このままだと経済的破綻より先に、心身の健康を損なう。これでは消費も結婚も辛いよなあ。我らはもっと貧しかったが、あとで何とかなるという根拠のない楽観者だった。


 いまの憲法の前文にはこう書いてある。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 人類の生存権に言及しているのだが、全世界の心配をする前に、目先の自分たちの生活が危なくなってきた。

 くりかえすが、この前文には「その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民が享受する」とあり、草案では何としてでも「享受」の部分を削ろうというご方針だろうが、今のところ「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という約束である。国民が率先してこの約束をないがしろにしたら、大変なお返しがくるだろう。

 そして、「公共の福祉」を念頭に置けと憲法に言われているのも、われら国民である。裁判の判決文をみていると、司法は権利の濫用に対して、たいへん厳しい。最近は弱い者いじめだけではなく、見て見ぬふりも過失責任を問われるようになってきている。それにカンダタ、覚えてますか。人のふり見て我がふり直そう。今日は説教臭くて済みません。







(おわり)






極楽は蓮の花 不忍池  (2016年10月2日撮影)




















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