おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

そもそも家族とは何だ  【後半】  (第1265回)

 先回のつづき。その「family」が、ほかならぬ現憲法の素案になった「GHQ草案」(マッカーサー素案)の第23条に出てくる。これは現憲法の第24条の土台になったものだ。数字が一つずれているのは、現憲法の第3条と第4条に相当する条文がGHQ草案では一つの条だったからで、第9条も当時は第8条だったのだ。タイプされたGHQ草案のPDFファイルが、国立国会図書館のサイトにある。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

 懸案の「family」は、同23条(いまの第24条に相当)の文頭にさっそく出てくる。おそらく、ベアテ・シロタ・ゴードン氏の筆によるものだろう。あまり法文らしくない文意で、「家族とは人間社会の基礎であり、善かれ悪しかれ、その伝統は国に浸透する」。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076a_e/076a_e010l.html


 これに続く英文(婚姻から始まる)が、いまの憲法第24条の第2項と第3項に対応している。つまり、どこかの段階で、誰の判断か知らないが、GHQの「family」に関する記載は削られた。それを、改正草稿が、やや違う形で復活させようとしている。

 世間では、特にフェミニズムの観点から、改正草稿における第24条の新設第1項は、戦前の戸主・家長の制度や風習の復活を目論んでおり、男女同権を謳った第24条の趣旨に反するという批判がある。たぶん改正草案起草者の企図するところは、その懸念どおりだろう。これからは、かつてのように嫁は親父が決めるのだ。

 GHQのシロタさんは、男女同権を憲法に入れ込むべく、第24条で頑張ったらしい。この概念が嫌いなはずの改正草案が、よりによって、そこから「家族」と「伝統」を引っ張ってきて戻してしまうとは、ずいぶん勇敢というか、粗雑というか、話題には事欠かなくて済むのだけはありがたい。


 先ほど、第24条案の後半も出典があると述べた。民法の第4編第1章「総則」の最後に、失礼ながら取って付けたかのような脈絡のなさで、次の条文がある。
(親族間の扶け合い)
第七百三十条  直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない。

 私の理解によると民法は、刑法や労働基準法のような強制的な法律ではなく、いよいよ困ったらこうせよという最後の手段のような決め事である。相続が典型で、相続権のあるものがみな合意すれば、全てを長男が相続しようと、その半分を末娘が相続しようと民法違反ではない。ただし、揉めたときには出るところに出る前後に、民法のいうことを聞かないといけない。

 したがって、この第730条も、直系血族及び同居の親族は、常に助け合わないと法律違反になるという意味ではなく、例えば生活保護の申請をするとき、これらの親戚に助けてくれる力があるなら、まずはそちらを当たってくれないと公務も忙しくて大変なので頼むという趣旨だろう。家族法には、他にも助け合い条項があるので、総則にこれを置いたのだと思う。


 しかし、ただいまの検討対象は憲法である。仮に改正草案どおりの憲法が定まったら、民法のこの部分など、どのように収拾をつけたらいいのだろう。家族の定義をするか? 下宿中の大学生や単身赴任中のお父さんは、どうする? 同居していない兄弟姉妹はどちらだ。ペットも家族だと心から主張する人は少なくないと思うが、世界に先駆けて人類以外も家族入りするか。

 血のつながった父と息子、母と娘は、子供が大きくなって別居しても、上記の民法第730条の「直系血族」にあたるから、現民法における「互いに扶け合わなければならない」間柄である。しかし仮に、こういう親子の仲が悪くて、口も利かず完全に縁が切れている場合、民法は黙っていなくても、私たちは、彼らを家族と呼ぶだろうか。きっと場合によるだろう。


 欧米のいくつかの法律では認め始めた同性婚も、現行憲法・改正草案ともに認めていないと理解しているが、そういうパートナー同士が同居して自ら家族と呼ぶならば、私は反対しない。この課題も、どうする。

 ペットも同性愛の同居も、当事者がそういうなら家族だと認めると私が言うのは、実は安倍さんと感覚的に近いものがあり、家族というのは法律用語に馴染まないほどに、ウェットな要素を含んだものであるからだ。うちのメダカにだって尊厳はある。尊厳で分かり辛ければ、五分の魂でも、仏性でも、馴染みの言葉を選ぼう。家族は、国家を形成する建築資材ではない。


 日本会議の理想の家族像はサザエさん一家だそうだが、私の子供時代も、あのままであった。カツオとタラちゃんは名字が違うし、ネコもいるが、みんな家族である。懐かしいものは懐かしい。だが、どうしようもなく時代遅れだ。憲法をいじれば元に戻ると、本気で思っているのだろうか。また、家庭教育支援法案というのが先日の新聞に出ていたが、何者であろう。

 お茶の間を破壊したのは、戦後70年の日本人である。部屋が狭い、マイホームを持って一人前、老後は子供の世話になりたくない、良い大学に入って良い会社に就職したい、狭苦しい故郷を離れて活躍したい。またそれを財界や報道が煽るものだから、無理して住宅ローンなど借りて離散した。この間、主に、どの政党が政権の座にあったか。国民だけを責めるのはお門違い。


 核家族ということばがある。もうそろそろ死語だろう。この「核」は、ウラニウムなどのことではなくて、これまで散々出て来た「ファンダメンタル」、基礎的な単位のことだ。だが、大家族制だろうと少人数だろうと、家族は社会の一形態。社会の存在そのものを否定したマーガレット・サッチャーも、さすがに家族は認めていたように思う。目に見えますからね。

 私の人生も五十年を超えて、信長の記録と予言を破り、病弱の割に長生きしたものだが、家族はその顔ぶれを変えつつも、ずっと助け合って生きて来た。みんな大して意識せずに、ずいぶん助け合っているのである。そういう機微のわからない人が、改正草案のようなことを言うのだ。さて、まだ第24条案には申し上げたいことがある。これも話題の社会保障と福祉の件だ。





(おわり)







秋の味覚の柿と栗 (この秋、撮影)








追記(ネットのニュースより): 10年前の刑事訴訟「京都認知症母殺害心中未遂事件」をご参照ください。この数年後に、「家族は、互いに助け合わないといけない」と憲法案に書き込む精神とは、いかなるものか。そのあと起きたことをご存じか。

































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