おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

のみ  (第1267回)

 第24条では、改正草案の新案第1項に、ずいぶん時間をかけた。今回は以下引用する現憲法の第24条第1項と、改正草案の第2項を比べる。私の知る限り、一般人まで巻き込んで憲法のみならず、法令の話題でただ一言がここまで反響を呼んでいるケースというのも、これを措いて他にあるまい。現行の第1項から、「のみ」を削った一件である。

  【現行憲法

第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

  【改正草案】  

第二十四条
二 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。


 いまの第1項と、改正草案の第2項は、二つの点で異なる。一つは上記のとおり、前者の「両性の合意のみに」が、後者では「両性の合意に」となっていること。もう一つは、改正草案の第2項が、本来の筆頭の位置から格下げになったことだ。一般的には、条項が単純に順序だけで格付けされるというものでもなかろうが、第24条は明らかに順番を意識している。それについては次の項でも示す。

 仮に、現憲法が初めから「のみ」が無く、改正草案のとおりだったとしたら、こんな騒ぎにはならなかったに違いない。つまり、「のみ」を追加せよという大議論は起きなかったと思う。しかし、ここで仮の話をしても意味がない。偶然、紛れ込んだのではないからだ。その経緯については、既に十分、触れた。そして、もう長い歴史を背負っているのである。


 「両性の合意のみに基いて」成立するという要件は、数学用語でいえば、必要十分条件であることを示す。両性であることが必要であり、その合意のみで十分なのだ。なお、この「両性であることが必要」という部分は、同性婚の支持者から、強い反発を受けるかもしれない。

 確かに「法制定の趣旨」という法律家が重視する観点からすれば、「ここは家長制度の排除と、男女平等を主張しているのであって、当時おそらく誰の念頭にもなかった同成婚を禁止しているものではない」という意見が出てくるのも自然のことだろう。私もそこはそう思う。でもこの日本語表現は、私が何度読み返しても、両性の婚姻しか認めていない。


 ここでは同性も両性に含まれるという突出した主張もあるそうだが、両の字は、どうがんばっても二つあるうちの両方という意味である。ここでは詳しく触れないが、民法ほか他の法律も、徹底して夫婦・夫・妻という言葉を繰り返しており、同性婚は想定していない。憲法も想定していない以上、禁止も明言していない。

 同性婚を法制化したいのであれば、欧州各国と同様、大議論が必要だ。残念ながら、今の憲法では読めない。自分に都合のよい解釈は、集団的自衛権でもう、うんざりです。正直申し上げて、私の周囲には、夫婦別姓の議論はあるが、同性婚を求める声を聞いたことがないので、これまで考えたこともない。ここでは反対も賛成もせず、憲法の議論に戻る。


 さて、「のみ」外しの件について、この変更は「両性」(男女の婚約者同士と同義だろう)以外の者も、婚姻の成立に関わるべし、あるいはもう少し穏やかに、関わってもいいんじゃないというような意図が透けて見える。実際、保守政治家は、そう明言してはばからない。勝手に若いもん同士だけで結婚するから、離婚が増えるのだという意見も聴いた。

 私が子供のころのテレビ・ドラマや映画では、新憲法制定後であるにもかかわらず、レヴィ・ストロースの交換論そのままで、若い男が「どうかお嬢さんをください」と畳部屋で手をついて頭を下げ、お嬢さんの親父は「あいならん」という対応を見せていたものだ。家長の制度は消えていても、儀式は残っていたのだ。これが離婚を抑えていたかどうか知らんが。


 宮沢賢治に「家長制度」という短編がある。これも青空文庫にあるし、3分ぐらいで読めるから是非ご覧ください。過去こういう風景が、随所にあったことだろう。戦前の日本だけではない。読んだことは無いが、たぶん「ロミオとジュリエット」も似たようなものだろう。天孫素戔嗚尊も本件で一悶着あった。

 ただし家長制度が絶対悪と言われると私は反発する。我が二人の祖父は、典型的な明治男で、妻子と孫に君臨・統治していたが、以下は他界してから聞いた話だ。いずれも静岡の町が空襲で焼け落ちた次の日、トタン板や焼け焦げた木材などを拾い集めてきて、即席の家を建て家族を守った。子供を連れて逃げていた祖母が帰って来るからだ。もともと家族はお互い助け合うものなのである。


 とはいえ、いまや文字どおり前世紀の遺物と相成った。かつての家長制度は、その存在意義を敢えて積極的に書くならば、先祖代々、引き継いできた土地建物、家業、墓、地縁・血縁を守り、後代に引き継ぐ責任者だった。

 近くに対抗勢力がいないから、賢治が描いたように、きっと威張るだけ威張った者も多かっただろう。そして、今や大半の家庭では、誰かひとりが一生をかけてまで、前述のような後代に継ぐべきものがなくなってきた。


 自宅の相続者や墓守りは、必要なら誰かがやればよいという時代になった。後戻りする気配は全く無い。子の婚姻に反対するならば、それ以上の幸福を提供するのが役目というものだろうが、今の中高年男性に、そういう気概と財産があるかどうかというと、自問自答したくないので止めておく。

 改正草案における個人の軽視は、ここでもその顔をのぞかせている。わたしは個人主義とか自己責任とかいう言葉が死ぬほど嫌いで(正確には、そういう精神論を振りかざす連中が嫌い)、主義も何も、個人がたった一つの命、ただ一度の人生を持つという、無宗教者にとっては動かしようのない厳然たる事実があるのみ。のみ、で終わろう。







(おわり)








秋色  (2016年10月4日撮影)





















































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