せっかくのカテゴリー「憲法」の第100回記念ですから、このときぐらいは条文からいったん離れて、憲法に関連する華やかな話題を取りあげようと探してきたのに、結局、中途半端な報道しかなかった。またも文字どおり、雑記帳になってしまう。
雑誌かネットか忘れたが、「素人ジャーナリズム」を小馬鹿にしている文章を読んだのも最近だ。そう書く本人は、自他ともに認める玄人に違いないが、もしも、物書きでない者が政治経済社会について発信するのを指して素人ジャーナリズムと蔑むのであれば、このブログもその勘定に入るのだろうか。
そのとき即座に脳裏に浮かんだのは、プロがだらしがないから、こういうことになるのだという傲慢極まる感想です。その人物の文章も、私と同程度で、誰一人取材したわけでもなく、ネット情報だけに頼って書かれている。何が言いたいかもよくわからず、とりあえず政府が好きらしいことぐらいは感じる。
さて先月、憲法という言葉が珍しく国会関係のニュースに出て来たので、これはネットで読んでみた。ご覧になった方も少なくないと思う。私のニュース源は、朝日新聞デジタル(2017年2月8日13時過ぎ)で、印刷して今、手元にある。
すいぶん速報したもので、当日の衆議院の予算委員会における防衛大臣の発言を対象にしたものだ。前半は、こうなっている。
南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に参加する陸上自衛隊の日報で現地の「戦闘」が報告されていた問題に絡み、稲田朋美防衛相は8日の衆院予算委員会で「戦闘行為」の有無について、「事実行為としての殺傷行為はあったが、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」と述べた。
上記の発言部分である「事実行為としての...」以下の文言で、そのまま検索すると、たくさんのサイトがヒットする。さすが、コピペ文明。聖火リレーの火元は、その影響力と素早さからして朝日さんだろう。ここでは後段は転載しないが、もちろん批判的である。
ところが、本当にこの言葉どおり防衛大臣が予算委員会で(なぜ、予算委員会で、この話題なのだ?)「述べた」かというと、そうではない。しかも私見ながら、少しニュアンスも違うのではないか。
国会は本会議のみならず委員会も議事録が残るが、本件はこれを書いている3月上旬になっても、まだアップされていない。一か月遅れぐらいのようだ。だが現在は、これに加えて字を読んでくれない人たちのために画像もアップロードされていて、これは既に公表されている。
さすがに、眠っている議員は映っていない。撮影か編集の威力であろう。しかし野次は相変わらず上品で語彙も豊かである。さて、これから観る方のためにご参考まで、最初から2時間半も経って、この件の質疑応答が登場する。
もっとも、応答と言えるような代物ではなく、念のため私は、原始的な手段で録音もしたが、永久保存する価値はない。見事に質問と答弁が擦れ違っており、街頭演説を二つ聴いているようなものだ。
話題は重要で、南スーダンの日報が出てきてしまった事件である。国民が彼の地の自衛隊の状況を知り得る数少ない機会であるし、また、シビリアン・コントロールが機能しているのかという観点からも大事な出来事だった。
大臣の論理は、一般的に使われる戦闘という言葉と、法律に定義された戦闘行為とは異なる。そして、自衛隊の日報に出て来た戦闘という表記は、法的な戦闘行為ではなく武力衝突である。これが延々と続き、委員長(似ていると思ったら、やっぱりハマコーの御子息だ)も、うんざりしている。
前半は事実なのだろう。法律用語の「戦闘行為」は、もう十数年前にできた「重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」という長い長い名前の法文中に出てくる。
後方支援活動及び捜索救助活動は、現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われている現場では実施しないものとする。ただし、第七条第六項の規定により行われる捜索救助活動については、この限りでない。
中高年におかれてはご記憶かと思うが、これは日本が米軍の後方支援ができるように、自衛隊の活動範囲を広げた法律。当時の「戦闘地帯でなくとも、戦争中の後方支援は戦争の一部だ」という野党の指摘は、議論の余地なく正しい。
だが、兵站軽視は大日本帝国伝来の高等戦略である。アメリカがどう考えたか知らないが、今の大統領と同様、「金を出さんか」と思ったかもしれない。後方も何も、同時多発テロはこの二年後に起きた。
すでに、ここでも指摘したように、労働組合法と労働基準法とでは「労働者」の定義・範囲が異なるように、法律用語の定義があるときは、厳密には、その法律で使うにあたっての概念整理に過ぎないはずだ。
どこに行っても、それしか使えない定義ではない。もちろん国会の場だから、法律の定めは尊重するのだが、本来、立法府はこれからできる法律を議論するところだから、まだ定義のない言葉も丁寧に扱わなければならない。
だから、「一般的に使われる戦闘という言葉と、法律に定義された戦闘行為とは異なる」というのは、彼女のかつての仕事場であった法廷では真理なのだろうが、国会でそれだけ言って帰るというのは、答弁になっていないことも含め、議員のすることではないと思う。
それに、「一般的」というが、これを使ったのは一般人ではなく、陸上自衛隊である。日本において、目の前で起きている事態が戦闘かどうかを実態的に判断する能力と責任があるのは、自衛隊を措いて他にあるまい。しかも、現地報告なのだ。私が陸自なら怒るね。怒ったから、この騒ぎなのかもしれない。
朝日の意訳は当たっているのかもしれないが、実際は、憲法問題になると面倒なので避けたということだけで終わり。せっかくの論点も議論が深まる前に賞味期限が切れた。関西の国有地を巡る総理夫妻の疑惑という、マスコミも野党も主権在民も大好きなスキャンダル騒動に、すっかり食われてしまった。
そちらの件は、長くなってきたので次回にします。かくのごとき言葉の危険な遊びは、一般に憲法解釈と言われる。先般、お出ましいただいたパル判事は、日本とドイツを比較して、大戦中、日本の憲法は完全に機能していたと言い切っている。あの大戦争は、解釈の成れの果てだ。
ちなみに、国有地払い下げスキャンダルがなくても、この話題は余り盛り上がらなかったかもしれない。日報のスクープを抜いたのは、フリーランスのジャーナリストだった。素人ではないぞ。そして、マスメディアは、こういうのが悔しいので黙り勝ちである。
(おわり)
根津の梅 (2017年2月19日撮影)
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