おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

政権と報道  (第1262回)

久しぶりの更新だ。私は子供のことから政治は汚いという理由で嫌いである。子供ならそれでよいが、今や有権者であり納税者であり家族もいる以上、社会人としての最低限の責務である選挙の投票だけは欠かすことがあってはならない。

選挙は正直言って、若くて転勤族だったころや、在外選挙制度のなかった時代の海外駐在中は、ほとんど投票に行かなかった。地方選も含め、毎回選挙に行くようになったのは、自分の子供が生まれてきてからだ。これでようやく大人になったらしい。


それでも、実は一回だけ投票を放棄したことがある。もう十年くらい前のことなのだが、まだ気にしている。以下、言い訳を並べると、仕事が忙しく期日前投票ができず、期日の日曜日に発熱し、外は大雨で翌週に大事な仕事を控えていた。

しかも事前の予測では、現職の圧倒的な有利が伝えられていた。実際に結果もそうなったのだが、それでもこの権利放棄は、同時に責任放棄であることに間違いない。


さて、最大与党の自由民主党の総裁選挙と、最大野党の立憲民主党の代表選挙が時期的に重なった。政治が嫌いであっても、毎日メディアとネットで動向を確認し続けなくてはいけないから辛い。

それにしても見事に順番で出馬宣言をして、一人ずつニュースの主人公になるようにスケジュールを組んでいる。マスメディアも嬉々として報道にいそしんでいる。


報道機関は選挙が大好きだ。何せ自社で企画しなくても、政治と行政が脚本・制作を担当してくれるし、金も役者も出す。日本はほぼ即日開票ということもあり、他者に抜かれる心配もない。他の番組の放映を中止しても表立っての文句は出ない。

世の中には異常な選挙好きがいるので、視聴率もある程度は期待できるし、選挙前後の大騒ぎも含め話題には事欠かない。このため新聞・テレビは一年中、解散か解散かと煽り運転に忙しい。


私は現与党の憲法改正案に反対であるが、かといって未来永劫、一字一句も変えてはならないという護憲原理主義でもない。とにかく改正したいという点が一つある。この解散に関係がある。

私の改正案は、衆議院の解散は内閣不信任案が可決されたときに限定するというものだ。つまり現行の第六十九条のみとし、第七条第三号に補足し、天皇が内閣の助言と承認により衆議院を解散する云々の乱用を厳禁する。


選挙に有利(あるいは現状維持では不利)なときに、さっさと解散するという悪習慣は自民党のみならず、民主党(当時)政権時代も同様だった。毎年、トップが代わるとは生徒会長か、あんたらはと私は怒っている。

そして、上記のとおり報道機関も、さらには出番が増える政治評論家や言論人も、見渡す限り誰一人、この異常事態に苦言を呈さない。国の最高機関が四年と定められた任期を全うせずして、職場放棄をし「バンザイ」なんてやっているのだ。


私の場合、その候補者・政党に投票するかを決めるにあたり、日常的なニュースはむしろ「おまけ」とし、新聞の折り込みに入ってくる「選挙公報」を読んで最終決定する。たいていの人より真面目に読んでいる自信がある。

最近テレビは災害報道以外、ほとんど観なくなっているので、カタストロフであったという先の都知事選の政見放送は観ずに済んだ(ポスターは嫌でも目に入って来たが)。


ある候補者の公約や主張の全てが、自分の考え方感じ方に一致することない。それを求めるには自分で立候補するしかないが、他にやるべきこと、やりたいことがたくさんあるので政治家は志さない。

だから選挙公報を読む際も、どれが一番自分に近いのかという難解至極な判断を自らに課しつつ、でも意外とそれほど悩まずに決まるものだ。


ただし衆院選の場合、これを四年かけて実現する(または四年間続ける)という約束なのだという前提で読んでいるのに、必ず裏切られる。たまったものではない。

政治家も報道関係者も、自分たちがどれほど恥ずかしいことをしている(と私にバカにされている)ことか、一度でも考えてみたことはあるのか。相変わらず禊(みそぎ)が必要なことをしている場合ではない。おかげで先の読めない代議士ばかりだ。


(おわり)


拙宅のベランダに夕顔が咲きました。 (2024年9月8日撮影)



























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