教育勅語を幼児に音読させる幼稚園があるという妙な話は、もう一年くらい前に聞いていたように思う。今そこは、国有地のたたき売りと、有毒物質の意図的な放置という、本当ならば、とんでもない疑いをかけられている。
調査中のようだから、犯人扱いはしないが、国会から会計検査院に至るまで、他にやるべきことが山ほどある組織の体力と時間と経費を、こんなに消費すること自体、うんざりする話です。
1890年(明治二十三年)は、日本の憲政史上、画期的な年になった。大日本帝国憲法が施行され、帝国議会の第一回招集があった。なんで帝国なんだ。
参議院のサイトによると、議会の準備は憲法に後れをとったのか、議事堂の建設が間に合わず、木造の仮設で開会したらしい。これがまた、火災で二回も焼けたと悔しそうに書いている。
明治憲法が公布されたのは、その前年の紀元節である。当日は東京に雪が積もった。正岡子規が「墨汁一滴」に書き残している。もっとも、書いたのはその12年後の2月11日で、昔を思い出しての新聞記事である。
「朝起きて見れば一面の銀世界」で始まる文章は、最後に「その時生まれ出でたる憲法は果たして能く歩行し得るや否や」という懸念で終わる。
子規は「その時」学生で、二重橋まで出かけていって「万歳を三呼」してきたというから、とても目出度い出来事だったのだ。
憲法の歩行という不思議な心配をしているのは、彼がすでに歩くどころか立つこともできないカリエスの重病人だったから。記事を書いたのは1901年。日露戦争の前夜。翌年に子規は死んだ。
教育勅語もなぜか明治憲法と同じ1890年に発布されており、しかも憲法や議会より先である。名前くらいは子供のころから知っているが、こんな過去の遺物が今ごろ話題になるとはね。思わず読みました。
主語は朕である。明治天皇。説教されているのは「爾臣民」つまり我らのご先祖で、これをもじった「ナンジ人民」と、勅語の最後にある「御名御璽」という便宜的な表記の組み合わせは、私以上の世代なら、或る種の記憶を呼び起こすかもしれない。
この教育勅語は、これまで見て来たように、憲法改正をしようとしている人たちの一部が大好きな、教育・道徳・義勇・顕彰・奉公といった、本来は悪いものではない概念が、おせちのように煮絞めて詰め込んである。
幼稚園児が感染しないことを祈るが、そもそも教育勅語は教育を受ける幼児に対してではなく、まずはその教育をする者に対して出されたものだ。だから尊重したいのならば、まずは教師や親が読んで従わなければならない。
この教育勅語に「国憲」という、今はほとんど使われない言葉が出てくる。でも、たまには働く我がPCは、こっけんの漢字転換候補に出して見せた。広辞苑第六版によれば、「国の根本の法規。憲法。」とある。
国憲を重んじよと勅語に言われているが、方々、大丈夫か? ともあれ、明治のころは国憲という言葉を、普通に使ってたのではないかと思う。もう一例、知っている。
第一回の帝国議会の選挙に当選した植木枝盛は、国会議員になる十年も前に、憲法草案を独自に創り上げている。国立国会図書館のサイトで、ご本人の筆跡も見学できる。
http://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description14.html
題名は「東洋大日本国々憲案」とあり、最後の「々憲案」が、すなわち憲法のドラフトを意味する。その「第七十條」が今回の題名。政府が憲法に違背するとき、日本国民は従わなくてよい。法治国家の本質を端的に衝いている。
現憲法の改正草案をつくったひとたちが、妙に教育好きであることは、すでに散々述べたが、まだ言い足りない。教育基本法の第二条を引用する。条文冒頭の「教育は」というのを、「国会は」に置き換えて読むと分かりやすい。
(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
1 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
2 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
3 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
4 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
(おわり)
メジロ (2017年2月19日撮影)
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