おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

教育に参加したい国家  (第1287回)

 ようやく第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」に関する箇所を終えた。マズローの欲求5段階説によれば、生理的な欲求や安全の欲求が満たされると、人は次に所属の欲求や、承認の欲求の段階を志向するらしい。ということで、第26条が教育、第27条が勤労の定めの出番だ。重要課題です。

 既に出た「学問」と、この「教育」の違いは何か。こういうのは下手に調べない方が良いと思う。変な理屈やこじつけに、付き合わされかねない。教育とは、文字どおり教え育てることであり、教壇に立つ側が行う。学問とは、学び問うことであり、反対側に座る者が行う。福沢諭吉先生は率先して学べと言ってみえるのであり、さっさと学校に行きなさいと説教しているのではない。


 さはさりながら、子供は束縛を嫌うので、説教をくらう。更に今は世の中が複雑になり、家庭や近所だけでは教えきれなくなって、国や地方公共団体がプロを揃えて教える必要が出て来た。民間の力も必要になっている。しかも、教育の期間は長くなる一方で、ことほど左様に、野生動物が社会人になるには手間暇がかかる。

 一言で言えば明治維新の成功は、教育の勝利だというのが司馬遼太郎の口癖だった。黒船が来てから吉田松陰勝海舟も、いまさら身分は問わず、あらゆる階層から有為の人材を集め働かせよと建白している。国は優秀で多様な人材を多く必要とする。国民も食っていくのに読み書き算盤が不可欠の時代だ。かくて憲法には教育の権利と義務が定められた。


 ただし、次項の勤労と異なり、同一人が同時期に義務と権利の両方を有するという規定ではない。権利は教育を受ける年代の国民側にあり(子供の心象風景としては、義務そのものだろうが)、義務は教育を受けさせる側の国民すなわち保護者にある。

 私が小学校に進んだ1960年代の半ばは、もうそろそろ田舎にも高度経済成長の余禄がこぼれ落ちてきた時代だ。でも、まだまだ貧しい家が少なくなかった。放置しておくと、子供は親の手伝いで忙しいという「伝統」が続いてしまう。かくて、義務となる年代の教育は、無償となった。ただし、給食代は払わないといけない。今の学校のルールは、会社のルールと似ているのだ。


 憲法の第25条は、その文面を殆ど変えなくても、実質を思いっきり変えることができるという、ハイ・リスクを抱えた条項の典型例であると思う。そう考える理由を挙げていくので、この25条も一回では済まない。まずは、例によって並べてみよう。

  【現行憲法

第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
二 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。


  【改正草案】

(教育に関する権利及び義務等)
第二十六条 全て国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。
二 全て国民は、法律の定めるところにより、その保護する子に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、無償とする。
三 国は、教育が国の未来を切り拓ひらく上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。


 相違点は、第1項では平仮名が漢字になった箇所があるだけ。第2項では、さすがに古風な「子女」を、「子」に改めている。子女の辞書的意味は二つあり、一つは男子と女子のことで、「man」が人と男の両者を指すのは時代遅れというのと同じ理由で、もう古い。この変更は、誰も異論ないでしょう。

 改正草案では、第3項が新設の追加条項。一応ごもっともと思いがちだ。少なくとも後半の、国は「教育環境の整備に努めなければならない。」というのは、「整備しなければならない」の書き間違いだろうが、ともあれ確かに、学校がなくて先生もいないし教科書もないのでは困る。国民の権利が国の義務に結びつくのは、お次の勤労も同じです。


 でも第3項の前半の「教育が国の未来を切り拓ひらく上で欠くことのできないものである」というのは、どうか。国家にとっては、このとおりだ。だから、戦前・戦中の軍国主義教育も、大陸や半島の反日教育も、この表現通りで説明できる。諸刃の剣と心得るべき文言である。或る種のイデオロギーは、人の心に雑草が生えないうちに、過大な愛国心や自尊心を植え付けるのです。

 政治が家庭や学校に出しゃばって来ると、ろくなことは無いとみんな分かっているはずだ。だから、第24条の「家族は、互いに助け合わなければならない。」に、拒絶反応を示した人が多かったのだと思う。だが、私の印象に過ぎないが、あまり教育の分野では教育分野の関係者を除き、同様の抗議を聞かないように思う。


 なぜなのか考えたが、おそらく第24条と異なり、第26条の教育条項は、第1項にも第2項にも、「法律の定めるところにより」と委任しているからだと思う。これは家族と違って、教育は避けようがなく制度設計が必要だから、特別法が不可欠なのだ。換言すれば、憲法はそのままでも、下位の法律を国会の過半数で簡単に変えられる政権ができたら、簡単に変えるだろう。

 私も含め大人は何かと小うるさいが、義務教育世代の子供はまだしも素直で、反論の技術がなく、グレたり不登校になったりするのが精いっぱい。私の人生程度の期間でも、極端な詰め込み教育から「ゆとり」に至るまで、子供はもちろん教師も親も、どうしようもないまま、振り回されてきた。だから、このまま通り過ぎるわけにはいかないです。






(おわり)






近くのお寺にて  (2016年12月6日撮影)




 この道はいつか来た道 − 北原白秋
 































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