おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

良心に従い  (第1259回)

 ようやく第六章の「司法」に入ります。最初の第76条については、改正草案も仮名遣いを改めているだけのようなので、いまの憲法条文を読むだけといたします。

【現行憲法

第七十六条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。


 第一項は、なるほど、仰る通りと言った感じなのだが、第二項の文頭で、早速つまづく。「特別裁判所」というのは、これまで一度も聞いた覚えがないのだが、それを設置してはならないといわれても...。設置されていないからこそ、聞いたことがないのは幸いだが。

 憲法は、字面を追う限りにおいて、大半の法律条例より、読みやすい。ほとんどが日常用語で書かれているからでもあり、区別はつかないが、憲法の用語が日常用語にもなっているからだろう。特別も裁判所も、普通に使う日本語だが、「特別裁判所」とは何だろう。


 こういうときに、助けになるのが英語版。第一項の「裁判所」は、映画などでもお馴染みの「court」。テニスコートと同じ単語。昔から、こうなのだろう。しかし第二項の「特別裁判所」は、「extraordinary tribunal」となっている。「tribunal」なんて、馴染みどころか、生涯、使うまい。

 これは用例をみると、裁判所的なのものではあるが、正規・常設の裁判の場(つまり第一項の司法機関)ではなく、似て非なるものであるらしい。取りあえずの理解のためには、一例で十分だろう。「極東国際軍事裁判」は、GHQ語で「The International Military Tribunal for the Far East」というらしい。


 これに続く「行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。」というのも含めて、国会の章において「唯一の立法機関」と定めがあったのと同様のものだと理解する。

 行政には「あっせん、調整、仲裁」という諸制度が様々にあり、司法の裁判はたいへん金と時間がかかるという実態があるため、そこまでいかなくてもいいが、しかし出るところに出ないと決着しないとき使われる。便利だが、ここで破断になったら、裁判に進むことができる。

 すでに、改正草案の軍事法廷のところでも出てきました。さて、私にとっての問題は、今回のタイトルに借用した第三項が意味するところです。勉強の都合上、三つに分けて考える。すべての裁判官は、(1)「その良心に従ひ」、(2)「独立してその職権を行ひ」、(3)「この憲法及び法律にのみ拘束される」。


 (2)と(3)は、当然といわれれば、当然のことのように思う。司法権における三権分立法治国家の在り方といったところだろう。意地悪く言えば、国会議員や閣僚は、独立していないらしい。主語が「裁判長」ならすぐわかるのだが、「裁判官」である。

 きっとこれは、頭目の裁判長が何とおっしゃろうと、(1)と(3)が各裁判官の司法判断の基準になるという意味なのだ。従って、よく聞く「党内不一致」とか「閣内対立」とかいった批判的な言辞は、司法では意味のない責め言葉であり、意見が割れるのも構わない。実際そうです。


 さて、(1)の「良心に従い」だ。日本国憲法において、「良心」はすでに出てきている。「第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」。同じ概念のはずだ。

 第19条のところでは、私見として「良し悪しを見分ける心」のような意味だと考えた。言葉を変えて言えば、「良心的」というような使い方における「絶対的に正しい」「言わずもがなに了解されている」というような意味とは少し違うのではないかと思った。今もそう思う。


 理由の一つは、「良心の自由」とあるからだ。これは先に出ている「思想」や、次の条に出てくる「信条」と並列であり、つまり人によって違うし、極論すれば「持たない自由」だって、あり得る。

 しかし、憲法にこう書いてある以上、裁判官は良心を持たなければならない。でも人により違う点は変わらない。この解釈でいいのかな。法律家、怒るのかな。さらに、ひねくれた物言いをすれば、議員や大臣は、良心がなくても違憲ではない。


 ちょうど、今週の新聞広告で、どこかの週刊誌が、裁判官は大変な高給だぞという、直接われらのルサンチマンに訴えてくるキャンペーンを張っている。どのくらいの年収なのか存じ上げないが、私はどれだけお金をもらっても、やりたくない仕事の一つが裁判官だ。

 どんなに訓練を受けたとしても、人に懲役の宣告とか、多額の賠償金支払い命令を下したりとかいう業務を、独立してやれと言われても、できない。きっと不眠症とストレス性胃炎になる。冗談ではない。今でさえ、そういう傾向があるのに。

 
 ともあれ、「良心」という言葉を、上記のごとく自分なりに規定してみたものの、そう考えると読みやすいという理屈っぽさが残っているのは認めます。良心的であってほしい。遠山の金さんや大岡越前の人気は伊達ではない。

 近ごろ見た映画「ハリケーン」でも「ガンジー」でも、裁判長は人種宗教を問わず、やっぱり正義の味方を体現してほしいというのが、たいていの人の重い重い要求である。それに釣り合う高給なら、文句はない。





(おわり)




これは「歓心」 岡本太郎
(2017年5月25日、東京四谷にて撮影)











































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