おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

「一札」について その2「差出人」(第1300回)

 前回の話題の続き。同じ写真を掲げます。「差出人」という題も適切な表現かどうか分かりませんが、要はこの「一式」を書き与えた人についてが今回のテーマ。縦の行でいうと後ろから四行目と三行目。これまた古文書に似合わず良く読める。前半の行には「兵庫助美濃守」とあり、後半は「小寺職隆」である。

 
 もう一度、念のため、このブログは手元の文書に書いてある人が実在したかとか、書いてある出来事が歴史的事実かということに殆ど関心を持たない。どういうことが書いてあるか詳しく調べて記録に残したいだけである。私は学者でもないし郷土史家でもないので、史実を究明するという関心も能力もない。

 一つ、鮮明な記憶がある。子供のころ実家に大百科事典というものがあって、本棚の端から端まで並んでいたのだが、ある日、歴史の巻を何気なく読み流していたら、武蔵坊弁慶は架空の人物と書かれていたのだから驚いた。そんなこと言われても絵本にも歌にも出てくるし、NHK大河ドラマでも緒方拳が演じていたではないか。


 遠い昔の人物が実在したか架空なのかというのは、所詮これと同様の程度問題であろう。なぜみんな卑弥呼の墓だ何だと大騒ぎするのであろうか。あれは古代中国の官僚が、たぶん行ったこともない倭という国について書き散らしたもので、中国の史書といえば現国家の正当性を誇示する目的で書かれたもので誇張や粉飾があると言っておきながら、なぜ卑弥呼だけ間違いないのさ。

 それならヤマトタケルはどうする。いつぞや聖徳太子も実在性が話題になった。お役人が書いたものだから信憑性が高いというのなら、再び登場いただくが女官が書いた源氏物語は本当にフィクションか。あれのタイトルは源氏物語かどうか未だに分からないらしい。後世の人たちが勝手にそう呼んでいるだけだ。実は「続々古事記」かもしれない。戦国時代の親子・兄弟の関係も、真偽不詳のものがたくさんある。


 きりがないので先に進むと、この「小寺文書」をデジタル写真に撮って、二つの博物館にメールで送って感想を訊いたことがある。一つは近所の上野、もう一つは黒田家ゆかりの福岡。よかったら現物を送りますとも書き添えたのだが、見事に同じ返事があった。ここに書かれているような歴史的な事実は他に記録がございません。ご家族で大切に保管なさってください。

 学芸員さんも余ほどこういう鑑定依頼に疲れているのであろう。きっと断り方マニュアルがあるに違いないのだ。無駄なお時間を取らせてしまって申し訳ない。それに、小寺文書は仏壇の隅に転がっているのを偶然、掃除か何かの際に見つけたという伝聞あり、ご家族で大切にというのはプロならではの助言である。


 さて、小寺職隆という名は、いずれまた詳しく論ずるが「黒田家譜」に出てくるし、徳川幕府がかき集めた武家家系図にも載っているし、お墓まであるので実在した可能性はある。官兵衛の父上の第一候補で間違いない。かつて触れたとおり小寺家と縁組をして、黒田から小寺になった人だから、この点で平仄も合っている。

 ただし、官職には諸説あるようで、「一式」に見える「兵庫助」というのは、彼の弟のものであるというのが有力らしく、現に放映中のドラマ「軍師 官兵衛」の隆大介が演ずる官兵衛の叔父さんは、役名が「黒田兵庫助」になっているのだ。さらに、上野か博多かいずれの博物館か忘れたが、「兵庫助美濃守」と縦に並べて書く作法はないと断言されてしまった。


 最後に司馬遼太郎の説に言及する。どの本で読んだか忘れた。江戸時代は寛永や寛政のころに、徳川幕府が諸大名らに家系図を出せと無理難題を押し付けたらしい。そもそも徳川家(かつての松平家)そのものが、遡れば羽柴や蜂須賀と大差なく、野党か山賊の親玉みたいなものだったという見解もあるらしい。そういう人たちほど血統書を重宝がるようだ。

 そのころ江戸の町には、家系図作りの職人まで出現したというから楽しいご先祖たちである。司馬さんは語る。戦国時代を生き抜いてきた連中にとってみれば公家や源平の末裔などと自慢するより、どこぞの馬の骨の子孫に決まっとると威張れるほうが余ほどの名誉ではないか。私も賛成だ。「兵庫助美濃守」が失策である以上、江戸のプロに頼んだ名作ではないらしい。



(この稿おわり)





友人からいただいた取れたての夏野菜。
(2014年7月17日撮影)



































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