おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

「一札」について その3「受取人」 (第1301回)

 急ぐ話でもなし、のんびり進めます。今回は小寺文書「一式」の宛先の人物である。小寺職隆は誰宛てにこの書状をしたためたのであろうか。こちらの方は若干、字が崩れているので土地鑑や予備知識がない人には分かりづらいかもしれない。私もようやく出番が巡ってきたように思う。



 後ろから二行目は、おそらく「濃州池田郡粕川住人」であろう。実はちょっと自信がないのだけれども、最初の字は小寺職隆の官位である「美濃守」の「濃」と同じ字体だろう。その次の文字が、似た字が前の箇所には見えない。となればサンズイのようなので、「洲」と書いて「州」と読み、長州や遠州と同様の表記方法だろう。たぶん。

 これだけでは説得力に欠けるが、続く「池田郡」には相応の自信がある。現在も岐阜県揖斐郡に池田町という行政区分があり、池田山もあれば池田温泉もある。それに小寺文書が保管されている揖斐川町と隣接しているし、ものの本によれば(この本については、いずれ紹介します)、十二世紀の記録に「池田庄」という名も出てくるそうだから古くからある地名のようである。


 全体の決め手は、それに続く「粕川住人」である。前にも書いた通り、この粕川は今もある。水源は伊吹山一帯。揖斐川町と池田町を流れて、木曾三川の揖斐川に流れ込む。小寺文書はかつて市町村合併の前に「春日村」と呼ばれていた地域にあるが、粕川と春日は語源が同じとみて差し支えなかろう。

 ということは、天正年間といえば差出人の小寺職隆は播磨国にいたはずだから、「一式」は当時でいえば国際郵便みたいなもので、遠く美濃の国に運ばれた書面であるということになる。まあ、そうでなければいちいち手紙も書かないだろうが。それでは最後に、受取人のお名前を拝読する。


 これは「三郎重孝殿」と読むということで間違いあるまい。「三郎」に自信があるのは、そう見えるだけではなくて、もう一つの小寺文書である「認」にも出てくるからだ。「重孝」も同様である。いずれ触れます。そればかりでなく官兵衛の祖父は「重隆」という名である。「重」の字が共通しているし、訓みが同じである。

 生き証人ともいうべき人物までいる。親類に小寺重孝さんが実在する。今はもう春日から離れてみえるが、この一族であることは何度か葬式で顔を合わせたり、ご自宅に泊めてもらっているので間違いはない。これだけそろえば、こっちのものだ。しかも今でも、粕川の一帯にはいくつかの村落に大勢の小寺さんが普通に暮らしている。少しは有難味が出てきた。



(この稿おわり)




うちの近所に多い芙蓉の花。好みの花です。
(2014年7月22日撮影)






毎年恒例、拙宅の梅干し大会。
(2014年8月2日撮影)

































.