「認」の解読に入る前に、「黒田家譜」に加えて、もう一つの文書について整理しておきたい。略称を「尊卑分脈」という。こちらは読み方が私にも分かっていて「そんぴぶんみゃく」という。大雑把にいうと「尊」とは王侯貴族であり、「卑」とは尊から分脈(分かれ出でた)人たちだが、ほとんど武家であって一般人のことではない。
編纂されたのは南北朝時代あたりらしい。これも巻数が多くて、私が持っているのは源氏の一部の写しだけだ。特に源氏が詳しいらしいのは、鎌倉時代も室町時代も清和源氏(源頼朝と足利尊氏)が始めた政府だということと無縁ではあるまい。私が持っている写しは明治時代に発行された活字の本の第九巻で、ほとんどが清和源氏の「後半」である。
基本的に男系図であり、女は載っていても皇族などの例外を除き「女子」などと書かれている。国会図書館のサイトに「尊卑分脈」についての概略があったので二点、引用する。
正しくは「編纂本朝(へんさんほんちよう)尊卑分明図」といい、また「諸家大系図」ともいう。南北朝時代に洞院公定(とういんきんさだ)が企画し、猶子(ゆうし)の満季(みつすえ)、その子の実煕(さねひろ)ら洞院家代々の人々が継続編纂した諸家の系図の集大成で、氏によっては室町期の人物まで収められている。源(みなもと)・平(たいら)・橘(たちばな)・藤原その他主要な諸氏系譜を類別にまとめている。(後略)
そんぴぶんみゃく【尊卑分脈】-国史大辞典
諸氏の系図を集成・編集した書物。洞院公定(とういんきんさだ)原撰。現行の本には欠逸した部分があり、また後人の追補・改訂も多いとみられる。(後略)
どうやら完璧ではないらしいが、歴史好きの人ならよう知っているであろう貴重な資料である。「黒田家譜」の書き手は、たぶん間違いなく「尊卑分脈」を知っている。なぜなら、「尊卑分脈」に記載されているご先祖の名は系図と少しの加筆のみであり、大きな差異もなく、個人の業績が記載され始めているのは室町時代の後半、つまり戦国時代になってからのことだからだ。
黒田氏は、「尊卑分脈」の大項目というべき「源氏」のうち、中項目の「宇多源氏」に載っている。ところどころに小項目もあって、清和源氏の小項目には武田とか足利とか今川とか大内とか老舗の武家が並んでいるが、宇多源氏の小項目は一つだけで、「佐々木」と書いてある。一番の有名どころが佐々木源氏なのだ。
実際、いつの日か引用するが室町時代に書かれた本など読んでいると「佐々木黒田なんとか」という名が出てくる。南北朝時代までの黒田氏が、宇多源氏の佐々木の筋であることには誰も異論がないだろう。問題になっているのは、その黒田氏と、官兵衛の黒田氏と、「小寺文書」の小寺氏(その前後は黒田氏)が、血縁関係になるのかどうかという点である。
これがまた見事に怪しい。上記の清和源氏の項には源氏の子孫を名乗る徳川氏が載っていないようだから、徳川氏と同じくらい怪しいということになる。だが、われらの粕川谷には「小寺文書」のみならず、黒田官兵衛の子孫であるという口伝や、戦国時代の黒田家とよく似た重孝や重助という名前が残っている。一概に出鱈目とは身内として言いづらい。
そして、私にとってはここが一番、大切なところなのだが、この粕川谷は本当に山川草木の美しい里で、そこに住む人々の暮らしは野菜をたくさん送ってきたりだの、山菜や樹木に恐ろしく詳しいだのという意味において、官兵衛のころの人たちと同じような生活ぶりを残している。ムーミン谷みたいに。
限界村落などという嫌な言葉が日常的に使われ始めた。社会問題になっているのだから仕方がない。粕川谷もその例外ではなく、若い世代が山麓や都会に出てきており、いつまで昔ながらの地名や生活が残るのか分からない。地元の人たちが貴重な資料を集めて保管しているが、なにぶんITとは無縁の地域社会ゆえ、私がこうして、お節介にも記録に残そうとしている。
(この稿おわり)
上野不忍池のハス (2014年8月10日撮影)
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