おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

博多の連隊 【後半】  (第1312回)

 前回の続きです。黒田家譜の中身に戻ると、高政の子・官兵衛の祖父である黒田重隆の時代になると、この流浪の一族は東に移動し、播磨国兵庫県)の姫路に移った。

 次の職隆の代になると、同地の小大名である小寺家の家臣となり、徴用されて小寺の姓を賜るほどの重臣となった。官兵衛は姫路生まれで、初めのうちは小寺さんだったのだ。初陣は赤松氏相手の夜襲といわれている。やっぱり夜襲か。


 彼の時代の播磨国は、中小の大名が割拠する乱世で、小寺氏は特に三木氏との争いが厳しかった。これが単なる縄張り争いだった時代が終わり、西から毛利、東から織田の圧力がかかって来る。織田家の西国方面軍司令官は、羽柴秀吉だった。

 小寺も三木も毛利を頼ったが、官兵衛は秀吉についた。三木氏は秀吉の調略を蹴り籠城する。織田軍は兵糧攻めで三木城を落した。立派な最期だった。秀吉は別件で離れており、攻城担当者は竹中半兵衛黒田官兵衛です。


 毛利の勢力と拮抗したため、秀吉は信長の親征を願い出た。さすがは信長公、このとき北方にいた、織田軍団では秀吉と並び立つ明智光秀の軍勢も呼び寄せて、勢力の一極集中を図る。

 運が悪かったのは、この出征途上に京で一泊した際、宿に本能寺を選んだことだった。秀吉と官兵衛は高松の水攻めの最中にこれを知り、船を浮かべて切腹した清水宗治の最期を見届けてから、天王山に取って返す。


 本当にこの子孫であれば、豪勢な話である。しかし、「播磨灘物語」ほかで司馬遼太郎は、江戸時代になってから幕府の命で提出された武士の家系図は殆どが即席の偽物で(そもそも徳川が急に源氏になったことだし)、まともに見える贋物づくりのプロまでいたと書いている。

 司馬さんは、むしろ下克上の戦国時代をのし上がってきた武家ならば、ご先祖はどこの馬の骨か分からないほうが名誉だと云う。全くその通りであろう。しかし、その司馬さんは自分の先祖が武士で、その三木城に立て籠ったと書いている。うちとは敵同士だ。


 官兵衛は息子の長政に代を譲り、形の上では隠居した。黒田長政関ヶ原の戦いで、それまでの政略や戦闘指揮を家康に高く評価され、筑前の大大名となった。また引越しである。

 なお、親父の官兵衛は、息子が東軍の主力だというのに、自らは乱に応じて九州で一旗揚げろうとしたが、関ヶ原が一日で決着したため、夢儚く、戦国時代は終わった。


 筑前は毛利と島津に挟まれた軍事・交通の要所だ。このため、従来から博多にあった城では不足とみた官兵衛と長政の親子は都市計画を立案し、海に近いあたりに城郭と城下町を新設した。この地に、先祖が身を立て名を挙げる契機となった備前の趣出身地にちなんで、福岡と名付けたというのが家伝のあらましです。


 福岡の城は、その姿が鶴の舞のように見え、舞鶴城と呼ばれた。仙台の青葉城と並び、何と美しい名か。ガダルカナルの資料では戦史叢書も含め、岡連隊長が率いる部隊を「舞鶴大隊」と記載しているものがある。

 この戦いが終わった後で川口支隊長が「転進」することになる道は「舞鶴道」と呼ばれ、開通したのは9月の15日。旧暦では、関ヶ原の戦いがあったのも9月15日だ。さて、川口支隊の総攻撃に戻ります。




(おわり)




【後記】 「小寺文書」のブログは、この回を最後に中断しています。いつの日か再開するかもしれませんが、当面、別ブログの引っ越しもありますので、そちらに集中いたします。






















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