おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

「一札」について その1「年号」(第1299回)

 今回からしばらくは、「小寺文書」の短い方の「一札」について書く。前回は署名欄だけアップしたが、次の写真が「一札」の全文である。前にも書いたように概ねA4横のサイズである。


 本文は後回しにして、文末から扱うことにする。最後の五行のうち後ろから遡って末尾の二行は「一札」をもらい受けた人の身の上と氏名、その前の二行は「一札」を書き渡した人の官位と姓名、五行目が年号である。年号から始めよう。「天正八庚辰年七月廿■八日」と読める。■は「十」で間違いないだろう。

 この「読める」という時点で何やら怪しい。戦国時代あたりの武家の文書というと、私の印象では外交目的などの公式書類は漢文である。祐筆という専門のライターがいて殿様の意を汲みつつ漢文を書き、偉い人は花押という朱色のサインをする。


 他方で個人的な手紙は、草書体と呼べるのかどうかも定かではないような変幻自在の字体で書かれている。最後に「ちくぜん」などと署名がある。私にとって漢文は英語以外のアルファベット言語と同じく、文字は分かるが判読は困難であり、逆にプライベートな手紙は、そもそも殆ど字が読めない。

 ところが、「小寺文書」は「一式」も「認」も殆どの文章が、あっさり読める。便利で有りがたいが、これが古文書なのかという根本的な疑惑がいきなり生じる。今に至るまで解決できない。紙も新しい感じで何百年も前のものとは考え難い。これは写本か「新作」であろう。

 写本だろうと新作だろうと言い伝えどおりの中身であれば、骨董品的な価値の大小はともかく、家譜や先祖に起きた出来事を調べるにあたり何ら問題ない。古事記源氏物語も原本は見つかっていないのだ。では、ちゃんとしたコピーであることを前提にして先に進もう。

 
 天正八庚辰年とは、天正八年であり干支が庚辰であることを示すはずだ。実際、天正八年(西暦1580年)は庚辰の年である。元亀天正と聞くと戦国時代まっさかりという感じだが、一つの区切り方としては元亀四年に足利氏の幕府が滅び、織田信長の時代になって天正改元されるため、元亀までが室町時代であり天正からが安土桃山時代と呼べるかもしれない。

 これは私には余り意味がない。どっちにせよ戦国の世である。「一札」の前年の天正七年、荒木村重に騙されて幽閉されていた黒田官兵衛は、ようやく味方に救出された。秀吉が率いる織田軍は足掛け三年も見事な抵抗を見せた三木城をやっとで落としている。そんな時代背景の下、一式は書かれているのである。


 換言すれば、天正七年まで主君の小寺氏と縁組をして自らも小寺氏を名乗っていた黒田一族は、当主の小寺政職片岡鶴太郎)が織田を捨て毛利に走ったため、官兵衛が生死不明になるという大混乱に陥ったのだが、ようやく生きて戻った。小寺氏が逃げたため、やがて元の黒田氏に戻るという、そんな時代であった。

 しかも、信長に人質に取られたまま死罪になったはずの官兵衛の長子、後の長政も竹中半兵衛の度胸と機転により生還した。黒田氏は、一挙に当主と継嗣が生き返ったようなものだ。天正八年は秀吉の活躍とも相まって、黒田家にとってはまことに目出度い年であったはずである。そんなときに「一札」が用意された。三木落城の約半年後の日付である。



(この稿おわり)










私の好きな夕顔の花
(2014年7月21日撮影)
































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