おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ミニ憲法  (第1288回)

 前回、司馬遼太郎明治維新は教育の成果であるというような考えに触れました。江戸時代は、各藩が競って藩校を作り、あるいは寺子屋を建て、しばしば当時の世界中で屈指の識字率であったという話を聞く。もっとも、これは江戸の知識者階級の男だけの統計という意見もあり、さらに現代では、この種の統計で日本のランクが下がることが多くなっているから、あまり自慢しない方が良い。

 ともあれ、藩校では文武両道が当然のカリキュラムであった。徳川期の武士階級は、ありていに言えば公務員なのだが(西郷どんは会計担当の公務員だった)、出世すれば軍人政治家であり、文武の達人なら怖いものなしだ。司馬さんのいう教育の成果とは、この武士=知識者階級が、維新を行い明治という国家を支えたのだという趣旨のことが「坂の上の雲」などにも出てきたように思う。


 鉄は熱いうちに打てという。その典型はスポーツ選手や音楽家でございましょう。幸か不幸か、三歳くらいから英才教育が始まる。確か歌舞伎も早い。ただし、これら肉体の鍛錬や情操教育は、民間人が自分たちの責任とキャパシティの範囲内で行っている。だからこそ、義務教育さえ疎かにしなければ、ご自由にどうぞということになっている。

 これが国家権力により為されると、どういうことになるか。前回は昭和の軍国主義時代を一例に挙げたが、青少年の教育訓練を徹底したのが、ナチス・ドイツヒトラー・ユーゲントだろう。ネットにも、たくさん情報がある。スポーツや音楽・演劇などに力を入れたのが特徴で、やがて強制加入(つまり義務教育)になった。


 われらの「Hatena Keyword」にも、その説明があるので引用します。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%C8%A5%E9%A1%BC%A1%A6%A5%E6%A1%BC%A5%B2%A5%F3%A5%C8

 次に現行の「教育基本法」のURLを貼るので、その全文と第一条をご覧願いたい。他意はありません。というか、ご想像のとおりです。冒頭に「全部を改正する」と記されている。
www.mext.go.jp



 この前文が、日本国憲法の改正草案の前文と似ているという話題を、だいぶ前に出した。教育基本法マイナンバーは、「平成十八年十二月二十二日法律第百二十号」という法律である。平成18年は2006年にあたり、その前年に「自民党憲法草案」が出た。首相が小泉さんで、官房長官が安倍さん。

 改正前の旧・教育基本法は、昭和22年の生まれと古く、憲法制定の翌年、国会法や内閣法や労働基準法と同じころ誕生した。この新旧比較表を、文部科学省がネットに掲げている。
http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/06121913/002.pdf


 これを見ると、改編というよりは、大幅に加筆したというほうが近い。そして、(新設)と表示されている新たに加わった項目を見ていくと、生涯学習、家庭教育、幼児期の教育などがあり、文部科学省も守備範囲が一気に広がってしまった。しかし、これらを見つつ、さらに第2条の「教育の目標」を読んで思うに、いったい誰が教えるのだ?

 優れた師は、自らを超える弟子を持つのだという。それを幼稚園や義務教育でもやるのだろうか。そうしなければ、鉄は冷め、道徳スーパーマンを揃えた国家になるという目標も達成できない。疑問はまだある。教育基本法から、「義務教育は9年間」の定めが消えた。下位の「学校教育法」にはあるから、制度変更は今のところ無いが、この改作の真意は何なのだろう。


 まだ、ある。幾つかの基本法には、「我ら」という言葉が、前文に出てくるものがある。国会が唯一の立法機関である以上(憲法第41条)、この「我ら」は国会議員のはずだ。しかしながら、改正教育基本法には、「我ら日本国民」が出てくる。ちなみに旧法では「我ら」だから、わざわざ憲法風に変えている。おそらく、起草者らは自分たちで、憲法の補足をしている気分なのだろう。

 また前回において、改正草案第26条の新設第3項にある「国の未来を切り拓く」という言葉遣いに躓いたのだが、これはすでに教育基本法の前文に出ている。この国家権力は、教育現場に本気で介入しようとしているらしい。しかも、家庭もその現場に含まれている。なんせ「親学」などと言い出す連中までいるのだ。繰り返すが、いったい誰が教えるのだ?


 ちなみに、憲法は現行のものも、改正草案も、「普通教育」という言葉を使っており、それを子供に受けさせるのが保護する者の義務ということになっている。ただし、高校は「中等教育の後期課程」という特殊な位置づけになっており、学校教育法では義務教育から外れている。

 また、第3項案の「国は、教育が国の未来を切り拓ひらく上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない」について。この「環境の整備」という言葉は、教育基本法では一箇所だけ、第十一条(幼児期の教育)に出てくる。案の定、このあとで保育所問題が激化し、現状、未整備である。


 前に引用した「学問のすすめ」の冒頭において、福沢諭吉は文学や音楽も結構だが、「もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」という寺子屋的、職業訓練的な勉強を最優先すべしと説いている。イギリスが作った新語「ニート」は、「Not in Education, Employment or Training」の頭文字で、ここでの教育も職業と密に結びついている。

 もっとも、英国と我が国を一緒くたに語れないのは、欧米には堅牢な社会階層があり、職業のための教育は、しばしば労働者階級に関連して語られる。十年ほど前、イギリスのブレア首相が、「労働政策」の最重要課題として、”Education, education, education,”と連呼したのがこれだ。学術的(アカデミック)な色合いは薄い。まして、道徳教育ではない。


 ともあれ、先述のように憲法が、教育の次に勤労を配置しているのは、偶然であるはずがない。第三章も前半は抽象概念的な権利や自由が多かったが、ここはたいていの人が実生活で大半の時間を費やす、社会経済活動に関わる項目になっている。両者の特徴は、繰り返すと義務あり権利あり。

 勤労の稿は、できれば11月23日「勤労感謝の日」にアップしたかったのですが、PKO関連を挟んだので(私のせいではないような)、少し遅くなってしまった。今年もあと半月でございます。







(おわり)







菩提樹も紅葉する  (2016年12月6日撮影)












































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