おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

心の自由  (第1341回)

 私の愛読書の一つに、今は亡き神谷美恵子さん著「こころの旅」がある。神谷さんは精神科医であり、大学教授でもあったお方で、かつて皇后陛下が一時期ご不調の折(報道では確か失語症)、御相談役として任命されたほか、哲学書の翻訳などもなさった碩学である。

 同書は1970年代に著されており、精神医学はその後、長足の進歩を遂げていると思うが、この本は智恵の書であり、その点において古びることが無い。その冒頭に「こころは肉体と切っても切りはなせない関係にある」という言葉があり、何かと精神と肉体を対立的な別者扱いする西洋の思想が気に入らない私にとっては、ありがたいご助言なんだ。


 一方、心と体は一体不可分にして、とはいえ、やはり別々の何かである。憲法の第三章「国民の権利及び義務」のうち、これまで見てきたように、最初は総論的な条項、そして前回の第18条においては、拘束・苦役といった体の自由を不当に奪う権力の発動を禁じている。

 そして、今回の第19条は思想および良心の自由、第20条は信教の自由を定めており、これらは心の自由のようなものだ。そのあとで、言論・移動・学問といった言動に関する自由が並ぶ。あくまで個人的な想像であるが、市民革命はこういう順番で自由を獲得してきたのかもしれないし、個人も成長に際して、こういう順番で自由を求め始めるようでもある。個体発生は系統発生を繰り返す。


  【現行憲法

第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

  【改正草案】

(思想及び良心の自由)
第十九条 思想及び良心の自由は、保障する。


 何度も同じことを書くのも段々としんどくなってきたが、看過もできず繰り返さざるを得ない。「侵してはならない」とは、侵しかねない相手に向かって禁則を定めているのに対し、「保障する」は、安全保障や社会保障を例に挙げた通りであって、「防ぐ」「守る」という意味の太鼓判が押されていて心強いが、結果は必ずしも保証されない。

 しかも、完成草案の文脈では、憲法を通じて国民が国民に対し保障しているだけで、これらの自由を踏みにじりかねない「誰か」または「何か」が、よりによって憲法から自由になっているという奇妙な具合です。わたしたちは、こういう発想を子孫に継承すべきか、考えなくてはならん。


 ところで、思想の自由というのは、分かりやすい。前出の例でいえば、精神と肉体は別で、前者は崇高であり、後者は貪欲であると考えるのも自由だし、おつむの出来具合を体のせいにするなよと主張するのも自由である。

 しかし、良心の自由というのは、どういうものか。これまで、私なりの理解で、自由とはいろんな選択肢があって、その中から好きなものを選べるし、選ばないという選択があってもよいと換言してきた。でも良心にバラエティがあったり、その中から選んだりというのは不自然だし、ましてや良心を持たない自由というのは、少なくとも憲法に書くものではあるまい。


 英語版の憲法は、この箇所に「Article 19. Freedom of thought and conscience shall not be violated.」と書いてある。確かに、複数の英和辞典をみると、英単語「conscience」の解説は「良心」が筆頭だが、他にも「意識」とか、「善悪を判断する力」といった意味もある。

 「良心」は明らかにプラスの意味(価値がある)を持った言葉だが、「意識」や「善悪を判断する力」は、より中性的な意味だろう。例えば、われわれの世代でいうとワンレン・ボディコンという古語があり、ボディ・コンシャスとは体を意識したファッションで、プラスかどうかは場合によります。


 第19条のコンシャスの訳には、「善悪の判断」を選びたい。何が善で何が悪かを判断するのは個人の自由であり、ときには「善いも悪いも無いわい」と判断することもできる。この判断基準はさまざまだ。文化、学問(倫理学とか美学とか)、宗教、村の掟、校則、エチケット、社風、家訓などなど。思春期に戦うこともある相手。

 ここで思い出すのは、十年ほど前に議論になった教育基本法の改正である。小学校における道徳教育の導入が決まった。広範な社会における善悪の判断の拠り所とくれば、特に圧倒的・支配的な宗教規範がない日本では、その代表格は道徳だろう。


 文部科学省が、改正教育基本法のビフォア・アフターを一覧表にしてくださっているので、ご参考まで貼付します。左側が改正後だが、加筆された下線部は、改正草案の憲法前文とそっくりの道徳的な字句が並んでいて壮観である。義務教育でこれに成功すれば、ただでさえお互い似ている日本人は、善悪の判断まで金太郎アメになるだろうか。
http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/06121913/002.pdf


 まだ、言い足りない。手元の広辞苑第六版で「道徳」を引く。「人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的原理。」

 どうする。改正教育基本法には、「道徳心」とまで書き入れてしまったが、法律とは違うと言われて困らないだろうか。現行憲法を「道徳」で検索すると、ただ一箇所、前文にある。長いので、前後はお読みいただくとして、省略する。「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。


 さすがの憲法も、政治にだけは道徳を説く必要があると考えたようで、海外まで巻き添えにして「各国の責務」とまで言っているのに、改正草案の前文はこれを削除している。加えて、もう一度、改正草案の前文のうち、「日本国民」を主語にした部分を転記する。これがすなわち、教育基本法から引用してきたものだ(そういう順番で良いのだろうか)。

 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。


 以下、私見ながら酷く間違ってはいないと思うので書き残す。上記の太字の部分は、大雑把にいうと日本国民が大事にすべきなのは「経済と道徳」だと言っておる。そう思いついた途端に連想するのが、先日、立像の写真をアップした二宮金次郎さんだ。
 
 ただし、尊徳翁が経済と道徳の両立を重視し、これらをゆめ忘るるなかれと語り続けた相手は、民百姓ではなく、支配者階級の側である。彼の著作は漢文なので読むのが大変だが、さいわい新渡戸稲造が「代表的日本人」に挙げているので、いっぺん読んでみてはどうか。誰にとって何が美しい国なのです?




(おわり)





そろそろ、うちわの季節もおわりです。
(2016年9月5日撮影)










 自由になれた気がした15の夜 − 尾崎豊










































.