おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

まずは前文から再出発  (第1263回)

 再出発する理由は、改正草案の前文に、今の憲法にはない「家族」という言葉が入って来たからだ。国のサイトで憲法をみる。

elaws.e-gov.go.jp


 最後に「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」とあるように、前文に掲げている内容は、簡潔にまとめれば「理想と目的」だ。それに対し、改正草案は最後に「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。」と書いている。これでは良くて現状維持ではなかろうか?


 今回は、現憲法の第一段落を三つに分解してみる。

(1) 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

(2)そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

(3)これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。


 まず、一つ確認。英語版では冒頭の「日本国民」が「We, the Japanese people」となっており、前文全体もこの表現か、または「We」となっている。つまり、全国民という集団を指す。他方、第13条の「個人として」は「as indivisuals」、何か所かに出てくる「何人も」は、「every person」。尊厳、権利、自由といったものは、個人に帰属している。

 また、第10条の「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」における日本国民の英語は「a Japanese national」であり、これを受けて日本国民を定義している国籍法も、全て個人としての要件を定めている。日本人は競馬以外、単複に関心が薄い。早く改正草案の英語版を作ってくれないかな。


 脱線しました。上記の前文第一段落のうち、最初の三つの文は、(1)議会制、(2)主権在民、(3)平和主義を明記したもの。そして、(2)に書かれていることが、そのあとの(3)の文中にある「これ」、すなわち「人類普遍の原理」だろう。

 ちなみに、(1)の議会制や主権在民は、この時点でも現在でも人類普遍のものではないし(良し悪しの問題ではなく)、さらに「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」したのも日本国特有の事情によるものだ。当時すでに東西両陣営の縄張り争いは始まっている。広島と長崎は、その初戦場に使われてしまったのだ。


 さて、(2)も正確を期せば人類普遍とは言い難いものだが、理想たるに値するし。また、1)の主語が我々日本国民であるのに対し、(2)は和文・英文ともに一般論の体裁をとっているので、私はこういう風に読んだのです。だから異論があってもいい。なお、(2)の文頭の「国政」は、英語でガバメントになっている。

 本日改めて強調するのは二点。まず、国政の「権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」というのが、我が憲法制定の「理想と目的」であることだ。爾後七十年、達成されたものもあれば、改善の余地もあろう。


 もう一点は(3)の最後。「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」という宣告である。前段の青字・太字で示した部分に反する憲法・法令・詔勅は、排除する。したがって、改正草案に(2)の原理と反する部分があれば、それは改正どころか改悪ですらなく、排除しなければならない。

 排除する義務を負う主体は書くほどのこともなく明確で、現時点では個人として尊重されている我ら日本国民である。自らこの前文を反故にせんとするものは、文字どおり非国民とよばれるであろう。

 では、頃合いもよろしいようで、改正草案の前文において、「家族」が登場する三行目だ。一行目と二行目は今回省略。
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。


 言わずもがなであるが、「和を尊び」の出典は聖徳太子の十七条憲法。これは仏教と天皇の部分を適宜、読み替えれば、確かに憲法と呼ぶに値するものだ。太子が実在したかどうかより、これを語り継いだ我らのご先祖に顔向けができないようなことをしてはいけない。せがれの山背大兄王は、平和主義の人であった。その道を歩むなら、私たちにも、覚悟が要る。

 和の尊重の前にある「日本国民が自ら守る」、「基本的人権の尊重」という表現・姿勢が気に入らないという点については、既に触れた。そして今日のテーマは、最後の「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」という箇所だ。この文は、前半の主語が日本国民であるが、この後半はいきなり「家族や社会全体」が主語に代わっているとしか読めない。


 うちの広辞苑にも載っているが、ドイツの法学者ゲオルク・イェリネックの説によると、「国家の三要素」とは「領土・国民・主権」であるという。この主権とは間違っても国家権力のことではなく、国家権力に国民から信託される独立国としての統治の権限(sovereign power)のことだ。これは譲れない。

 改正草案は、日本語の文法に沿えば、「家族や社会全体が」国家を形成するという新説を打ち出している(どうみても、イェリネック説と両立しない)。私の理解能力を超えているのは、間に挟まっている「互いに助け合って」という幼稚園レベルとしか思えないお節介な言いぶりの意味と、これを入れ込んだ理由である。


 このブログは、題名を考えるにあたり、憲法以外も話題にしようと思い、憲法以外で語りたいことを一言でいうにあたり、誰でも知っていて短い言葉として「社会」を選んだ。多義語だが、人の集まりや、その営みというくらいの理解でいる。ただし、「組織」のような構造的なものではなく、国連人権宣言に出て来た言葉でいうと「自然」に発生する。

 この意味でいうと、私にとって我が国を形成する「社会全体」とは、全国民に他ならない。これから語る家族の助け合いだけでも、みんな苦労しているのに、全国民が互いに助け合うとは、理想というより妄想に近く、幼稚園でさえこんな無理難題は教えまい。国家主導の全国民互助体制というと、おそらく全体主義と言い換えて差し支えなかろう。億兆一心。

 早くも気が重い。しかし、暗いまま終わらせないのが、このブログで最善を尽くすべき唯一のローカル・ルール。聖徳太子の伝説の一つに、宮殿と離れて暮らしていた時代は、毎日、馬を飛ばして通っていたという。今でいえば、さしずめハーレーに乗ってバイク通勤か。古代の躍動感が伝わってくるような話で、虚構かどうかなど意味はなく、私の好きな歴史物語。







(おわり)








イワナを釣った。計っていないが25センチぐらいだったか。
(2016年9月23日撮影)





















































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