おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

そもそも家族とは何だ  【前半】  (第1264回)

 前々回に第24条の前半を取り上げたので、今回はその後半。「家族は、互いに助け合わなければならない」。 さすがの改正草案も、前文でこの憲法は日本国民が制定すると書いているので、第24条後半も形式上は、日本国民が日本の家族に向かって命令している規定である。もちろん、実態は国家権力が家庭に乱入してくるのだ。

 第24条前半の「社会の自然かつ基礎的な単位」が、国連人権宣言の和訳のマネッコであった。本日の後半も、ほとんどコピー&ペーストに近い。原典は民法。この法律も見ようと自分に約束してあるので見る。民法は千条を超える壮大な法律であり、余りの分量に分類で困り、「章」のうえに「編」が五つある。

 そのうちの第4編が「親族」で、その第1章「総則」にある6つの「条」のうち、最初と最後を引用する。最初の条項は、いかにも総則の筆頭らしく、親族の法的定義である。

(親族の範囲)
第七百二十五条  次に掲げる者は、親族とする。
一  六親等内の血族
二  配偶者
三  三親等内の姻族

 これは古い時代の民法から引き継いだものだそうだ。上記のとおり、何せ広範囲である。六等身内の血族を、全部、知っている人が日本にどれくらいいるだろうか。皇族だけかもしれない。いとこは四親等であり、日本では結婚できるのだから、親族の範囲はあまりに広い。


 これをわざわざ定義した理由はよく分からないが、民法はこのあと、相続や扶養家族や婚姻に関連して、それぞれ異なる身内の範囲を設けているので、その最大公約数的なグループという程度のことかもしれない。これを超えたら親類縁者ではないということで宜しいかな(なお、親類が上記第725条の一、縁者が三に相当するだろう)。

 本人と一は血縁があり(遺伝子的な血のつながりだけではなく、養子縁組も含む)、二と三も血縁がある。つまり、本人が自由に選べる法律上の親戚は意外と不自由で、二の配偶者のみ。ここでもマーフィの法則は、往々にして威力を発揮する。いわく、失敗する可能性のあるものは、失敗する。改正草案は、家族のみならず、この親族まで第24条第3項に新規で含めた。


 日本語には他に「世帯」という言葉もある。世帯という用語は、私の知る限りでは生活保護法と住民基本台帳法に出てくるのだが、民法の親族と異なり定義がなく、いきなり登場する。つまり、「生活「や「台帳」に法律の定義が不要であるのと同じく、本来、日常用語であり、だれでも殆ど誤解なく受け入れる日本語だ。

 でも、行政では定義を必要とする場面がある。統計法の下にある「国政調査令」の第2条第2項に、「この政令において『世帯』とは、住居及び生計を共にする者の集まり又は独立して住居を維持する単身者をいう。」と書いてある。この政令とは国勢調査令のことで、統計を取るにあたり、日常用語とはいえ便宜的に定義をしておく必要がある。


 この政令上の定義のうち、前半の「住居及び生計を共にする者の集まり」が私のイメージする世帯だが、後半の「独立して住居を維持する単身者」も一人の世帯なのだ。独り暮らしは、いまや複数の世帯員がいる世帯のうち最多の二人世帯よりも数が多く、全世帯の約3割となって看過できないのだ。なお、生活保護もその法律により、この世帯単位を対象に行われる。

 親族も、世帯も、事情により自分のほかに誰も居ないケースがあるわけだ。では、家族はどうか。民法に、「家族」という用語は全く出てこない。ただし、法律学では先ほどの第4編「親族」と次の第5編「相続」を合わせて、家族法というらしい。学術用語である。だが、これは家族の定義ではない。家族とは、どうにもこうにも、日常用語なのだ。だから、人により解釈が異なる。それが憲法の義務規定に入るのだろうか。


 その家族という言葉の使い方も、結構おもしろい。私も十数年の一人暮らし・単身世帯の経験があるが、一人者や単身赴任者がよく訊かれる質問に、「ご家族はどちらに?」というものがある。「ご実家はどちら?」と異なり、出身地ではなく、「自分以外の家族」の居住地を訊かれているのだ。「家族とは長いこと会ってない」なんて言う風にも使う。

 自分も含める場合は、かつて「一家」とも呼んだ。「一家で旅行に行きます」とか、例えとしてでも良くないケースだが、一家心中というふうに現代でも使う。ただし、次郎長一家という用例もあり、血の繋がりとは関係なくても、それ同等の結びつきがあれば一家を為すこともある。この点で、英語の「family」と良く似ている。つづく。





(おわり)






信州は高遠城址の楓  (2016年10月18日撮影)