おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

権利についてのおさらい  【前半】  (第1359回)

 国民の権利と義務について悪戦苦闘中です。二三回前に、住居や経済の件で熱くなってしまったので、ここで少しクール・ダウンを兼ねつつ、分かったようで分からないまま過ごしてしまった基本的人権のことも含めて、第三章の冒頭部分を復習する。いまの憲法において、私が第三章の総括的な条項であると一括りにしたのが、以下の三か条だった。

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


 もちろん、これらに異論があるわけではないけれども、よく分からないなあと感じつつ、検討を諦めて先に進んでしまったので後味が悪い。どの辺が分かり辛いかというと、まず、第11条で「侵すことのできない永久の権利」と定めたのに、なぜ第12条で「不断の努力」で保持しろと言われ、第13条では「最大の尊重を必要とする」と、念には念を入れているのだろうか。

 また、第11条の「基本的人権」と、第12条にある「この憲法が国民に保障する自由及び権利」は同じものなのか、違うとしたら、どこがどう違うのか。第13条にある「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は、基本的人権の言い換えなのか、それとも全体の一部なのか。第三章は、私たちのライフ・ガードゆえ、ゆめ疎かにできない。


 これらの疑問点については既に以前、幾つかの資料を引用したうえで、これぞ基本的人権であるという確定的な定義はなさそうだということで見切り発車をしている。今もその解釈は変わっていない。とはいえ、これからも繊細で、ややこしい権利関係の話が続くので、もう一度、考えてみることにした。

 まず、広辞苑第六版で「基本的人権」の辞書的意味を確かめる。語義の最初のところに「人間が生まれながらに有している権利」とある。第11条の「享有」に対応する解説だ。そのあとで個別例の紹介があり、精神の自由、経済の自由、参政権などが挙げられている。長いので詳細は省く。


 では、自由と権利は違うのか、同じならなぜ別の言葉を使うのか。GHQの意見も訊いてみたいが、もう立ち退いたし、その際に「老兵は死なず」と言ったらしい人も死んだ。そこで、かつて持っていながら読んでいないと書いた本、「図説 『憲法問題』がわかる」という魅力的で、タイムリーな題名の本を引っ張り出してきた。

 同書によると、かつて権利には「前国家的権利」と「後国家的権利」という考え方があったらしい。前国家とは国家以前に「人が人たるがゆえに持っている権利」であり、つまり享有する権利のことだ。生存権などがそれにあたる。国家が滅びて難民となっても、消えることは無い。


 これに対して後国家とは、国家が政策として、法的に保障する権利のことだという。同書に例示はないが、たとえば参政権がこれに当たると思う。今のような国家が無ければ、今のような憲法も選挙も、たぶん不要だろう。

 ところで、ここのところ立て続けに投稿しているのは、噂によると憲法審査会とやらが再稼働しそうなので、それまでに大切な第24条と第25条まで、論を進めておきたいからです。それでは以下、後半は次号です。


 



(おわり)





南魚沼の民芸品、ふくろう。
(2016年9月22日撮影)








































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