おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

どこに住んでも良いのかどうか  (第1353回)

 第22条は、住まいと職業の自由に関する規定である。条文中の「移転」を広くとらえて、「移動の自由」と主張する人も少なくないようだが、種本の英文版を重視する限り、はっきりと住まいの変更と書かれているので、国語の教科書的には拡大解釈である。もちろん、私も移動の自由があること自体に反対する事情はない。最近は、日帰り出張の自由も満喫している。

 後半の職業の自由に時間をかけたいので、今回は住まいの自由をテーマにするのだが、その前に文章構成上の難題を取り上げる。まずは、いつものように今の憲法と、自民党の改正草案を並べる。今日は第22条の第1項だけ。


  【現行憲法

第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。


  【改正草案】

(居住、移転及び職業選択等の自由等)
第二十二条 何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する。


 変更点は迷う余地もなく、改正草案において、「公共の福祉に反しない限り」が削除されている。第22条のメイン・テーマの一つは、なぜここだけ気前が良いのかを考えるという難しい問題だ。気前が良い理由は、以下に挙げる事情に基づき判断する。

 これまで見て来たように改正草案は、その第12条と第13条において、現行の「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に置き換えている。更にまだ、たどり着いていないが、後出する第29条の財産権でも、同じことをしている。


 私にとっての語感では、繰り返すがこれは、国民に対して厳しく、国家権力に対して甘い変更案である。自民党の国会議員らは折りに触れて、就職の世話になったはずの日本国民が「義務を果たそうとせず、権利ばかり主張しよって」いるうちに、日本が変になったと述べているそうで、本当なら自分らのことは棚に上げて、われらを躾けるつもりでいるらしい。

 しかしながら、この第22条第1項だけは、上記のとおり置換ではなく削除である。つまり、居住・移転・職業選択の自由は、第13条のような「公益及び公の秩序に反しないかぎり」という制限がない。反しても良い。一見、ありがたいが、美味い話には裏があり、只ほど高いものはないという、先祖に教わった智恵の出番が来ているように思う。誰が福祉に反しても良いのだ。


 先ほど「構成上」という言葉を出したのは、まず、現在の憲法の言い分を確認するところから始めるためだ。前出の第12条は、現在こういう条文になっている。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
 
 文は二つある。二つ目の文にある「これを濫用...」の「これ」とは何か。前の文からの流れでいうと、また「濫用」という言葉からしても、「これ」とは「この憲法が国民に保障する自由及び権利」で間違いあるまい。ちなみに英文版では、どちらも複数形になっている。


 したがって、第12条においては「この憲法が国民に保障する自由及び権利」を、国民は濫用してはならないのであり、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任」を負っている。他方、すでに見たように改正草案では、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」に変更されている。

 この表現の解釈を基にして、私は第12条が第三章の全体を覆う総合的な規定であり、この長い章に定める自由と権利のすべてにおける取扱注意の条項と見なした。一方で憲法は、この第12条で「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任」と言いながら、改めて、続く第13条、この第22条、後出の第29条に、またも「公共の福祉」の優先が謳われている。


 自分の理解を正当化するにあたり、この構成は「公共の福祉」が特に重要である条項において、繰り返すことにより強調しているのだという考え方を取って来た。改正草案も、これまでのところ、単純に「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と書き換えて来たようで、そっくり同じ構成になっている。ここまで、矛盾はない。

 ところが、第22条では置換をせず削った。でも、どうする。私の考え方が間違いないなら、第12条は「常に公益及び公の秩序に反してはならない。」という「濫用禁止令」を、そのまま第22条にも課しているはずではないか。これでは、文面上、消し去っても、仮にその効果が薄れたとて、野放図な自由を認めたことにはならないはずだ。書き手の説明を求める。たまには答えて。


 仮に、草案起草者が、この制限を取っ払い、国民がどこに住むのも、どこへ引っ越すのも自由であり、公益及び公の秩序に反しても大丈夫と言いたかったのだとしよう。わざわざ削ったのだから、そうとしか考えられない。

 現副総理のA君(仮名)によれば、この改正草案は立法府に属する与党の諸兄が、みんなで一所懸命、考えたものだそうだ。その情報源は忘れたが、ネットでそう読んだ覚えがある。三人寄れば文殊の知恵というが、おおぜい集まると災害になるというのは余り聞かない。

 ともあれ、2012年以来もう4年の長きにわたり、人目もはばからずネット空間に大公開中なのだから、これは単なる作業漏れでも、誤植でもあるまい。本気で、規制緩和するつもりなのだ。では、なぜ、ここだけ?


 私の場合、これまで公私さまざまな理由により、二十回前後の転居を経験している。そのうち住民票を移した回数だけでも十回を超える。転勤命令も覚悟かつ期待したのうえの就職だったし、独身寮への入居を命ぜられた二十代前半を除けば、住む家も自分で決めてきた。まさに、居住と移転の自由に、際限なく恵まれてきた。このため、正直言って有難味をあまり感じない。当たり前だったのだ。

 だが、歴史の授業で習った人類の大半の暮らしは、こうではなかった。細かい定義の違いは調べないが小作人やら農奴やら奴隷やら、住む場所も職業選択も自由はなく、それどころか江戸時代の支配層である士族でさえ、鎖国だ出女だ参勤交代だ、脱藩は重罪だと、決して転居は好き勝手に出来なかったのである。


 ところが、近代国家と産業資本は殖産興業と戦争のため、無数の労働者と兵卒を必要とする。このため、それまで大多数の住民を土地に縛り付けて来た、古来の法や契約や社会習慣を改める必要があったのだろう。この自由の保障は、過去の権力者から人数を奪う政策の一環に相違ない。四民平等も廃刀令も同様である。まずは、ボランティア(志願兵)を集めるのが効果的・効率的だ。

 次回に職業の自由と抱き併せで論ずるが、現代の経済活動においても事は同様で、国民が自由に住居や職業を変えること(変えさせること)自体は、公の利益や公共の秩序にぴったり沿うものなのだろう。余計な世話は焼かないのだ。強制する必要がない状態にさえすれば、誘導する通りに移ってくれる。住居も職場も。


 さらに言えば、大金持ちがとんでもない場所に豪邸を建て、それが景観を害そうと、公共交通の邪魔になろうと、憲法は彼らの味方になるのだ。目出度い。私がそういう自由を法的に持ったとて、それを実現させる元手と蛮勇がないだけである。これらがある者ほど得をするのは、自由を標榜する政党が好きな自由主義経済パラダイスの設立目的である。どうして要らぬ制限をかけよう。

 心配なのは、いま「公共の福祉」に守られている貧しい人たちや、ホームレスのみなさんだ。蹴散らされても文句は言えない。立ち退き交渉、地上げの復活、ホームレスの仮設住宅の「撤去」といった嵐が吹き荒れる。東京オリンピックまでに化粧しないといけない天下の東京だ。総裁の任期も無事、延長されるらしい。


 かつて都庁が新宿に引越し、私は近くで働いていたが、やがてホームレスが消えた。ついで上野からも渋谷からも追い出され、最近は隅田川や荒川土手からも消えつつあるらしい。彼らは、居住と移転の自由だけを手土産に、どこに消えたのだろうか。こちらも厳しい老後を覚悟せねばなるまい。無宗教の私に、約束の地はないか...。

 コンサーバティヴなおっさんが、ここまで言わなければ気が済まないほど、今の日本は酷い。お金ばかりか、人の一生を丸ごと搾取し、恬として恥じない。政界や財界は、長い年月をかけて、大人しく死ぬまで働きかねないプロレタリアート層を形成してきた。それは今も、例えば「働き方改革」などと言ったお節介極まる運動下で着実に進んでいるようだ。

 今回は論旨が乱れたままで終わりますが、私だけのせいではない。乱筆乱文、どうぞご寛恕ください。




(おわり)





広重ゆかりの月の松
(2016年10月2日撮影)




その近所にあるべし、雀のお宿
(同日、上野にて撮影)















 I may not get there with you.
 But I want you to know tonight,
 that we, as a people,
 will get to the promised land.

    Martin Luther King, Jr.
    on 3 April 1968, Memphis, Tennessee










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