おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

苦手な宗教のはなし  (第1344回)

 次なる第20条は、政教分離の定めとして知られているが、私には第9条に負けず劣らず扱いにくい条項だ。戦争の経験もないが、特定の宗教の信者になったこともないので、そもそも宗教というものの大切さ有難さというのが実感できない。

 憲法に信教(この意味すらしらなかった。宗教を信ずることだそうだ。)の自由が規定されているのは大いに結構なことで、一かけらも反対するつもりはない。だが、他の自由や権利と異なり、仮に信教の自由がなくても、今のところ私の生活に不便はない。

 それならば、本来、無言で通り過ぎるべき箇所なのかもしれないが、第20条は信教の自由だけを謳っているわけではないし、改正草案もこれを改編しようとしているので、困ったことに目を閉じてしまうわけにもいかない。このテーマは長くなりそうで、何回か必要とするだろうな。今日は寄り道。主に個人的な事柄。


 梅原猛さんがどこかで、神秘主義は宗教に不可欠な要因であり、神秘的体験のない者には、宗教が分からないというようなことを書いてみえたような覚えがある。正確な記憶ではないのでモウさん云々はともかくとして、確かに神秘的な経験というものとは無縁だし、幽霊とか来世とかパワー・スポットとかスプーン曲げとか、超常現象なるものも一切信じない。

 実家は禅宗なのだが、家族はもちろんお寺に行っても、誰一人、禅を組んでいるのを見たことがない。信じ難いが、本当に一度もない。先年、亡父の法事があり、世の中お金ではないという有難い住職の法話をお聴きしたのであったが、最後に彼は手にした紙を見ながら、領収書をお持ちしましたのでお布施をお願いしますと念を押された。これで極楽を期待しろというほうが無理だろう。

 かといって、宗教心が皆無である訳ではない。墓参りのときはご先祖に胸の内で声をかけるし、初詣では家族親戚友人の幸せを祈る(商売繁盛は諦めているが)。それが何処の誰に何に届くのか、関心がないだけだ。届く必要もない。自分のためにそうしているのだから。死んで土にかえるまで。

 
 二十代半ばにアメリカに赴任する際、アメリカに関する本を何冊か読んだが、その中に宗教に関する心得として、今も覚えているものが二つある。一つめは、アメリカだけでないだろうが、社交の場で、政治と宗教の話題は出さないようにというものだった。

 念のため、多くのアメリカ人は政治や宗教の話をするのが、ことのほか好きだと思う。だからこそ社交の場で、すなわち仕事などの日常的な人間関係のタガが外れ、酒も入る席で政治や宗教の議論をし始めたら、せっかくの楽しい雰囲気も、それどころか下手をすると人間関係まで、台無しになってしまう。これは鉄則だろう。


 もう一つの心得は、アメリカで自分の信仰について訊かれたら、言葉を飾ってでもいいから、仏教なり何なり答えておけというものだった。無宗教は野蛮人と見なされるからだと、はっきり書いてあったのを覚えている。

 これはしかし、野蛮人に対して失礼ではないか。アメリカ人(特に男)の好きな感嘆詞の一つに、ガッデムなるものがある。映画にもよく出てくるが、毎日のように職場でも聞いていた。西海岸だったからというのもあるだろうが、宗教性と現代文明は、ほとんど負の相関関係にあるような感じがする。


 両親や親戚の影響も大きい。私はいわゆる葬式仏教の家に生まれ、高度経済成長という「科学万能」の時代に育ったから、この歳に至るまで、神も仏もない。そういう人は現代日本に決して少なくないと思う。文字どおり困ったときの神頼みか、冠婚葬祭と現世利益の依頼先、クリスマス・パーティーほか娯楽の手段になっている。これでは神秘のほうから、逃げていくのも仕方がない。

 とはいえ、半世紀以上も生きていると、敬虔な信者にも会う。やっぱり信教の自由は侵してはならない。クエーカー教徒とも知り合った。酒も煙草もコーヒーも一切なしと仰っていたが、そうしないと天国に縁がないと言われたとしても、私には拷問に等しい。狭き門はお譲りする。


 遠縁には浄土真宗門徒さんが何人かみえる。中の一人は初対面の私に、延々二三時間にわたり親鸞大聖人の教えを、こんこんと諭してくださったのであった。この大先輩は、口さがない親類ご近所や同級生から「坊さんよりも、坊さんらしい」と言われている偉人であり、私の宗旨替えに失敗したほかは文句なしで、知る限り仏に一番近いお方である。

 もしも、宗教団体というものが、このような清冽で潔癖な精神を持ち、それに従って日々の暮らしを営んでいる人たちだけで形成されるのであれば、憲法の第20条も、冒頭の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」で完結していたに違いない。でも、洋の東西を問わず、昔も今も例外が余りに多かったようで、そのあとは禁止令の連発である。つづく。






(おわり)






極楽とくれば蓮  (2016年9月3日撮影)