おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

個人情報アレルギー  (第1343回)

 今の日本人は、自らの個人情報やプライバシーの伝達・開示に過敏であると思う。確かにニュースをみていると、一向に衰える気配のない振り込め詐欺被害の報道や、大量の顧客情報が流出したとか、DV夫に間違って妻の住所が伝わってしまったとか、ストーカーなどといった怖い話をいっぱい聞かされる。

 時代は変わったということを弁えつつ、昔話から始める。「個人情報」とは明確に定義された法律用語であり、そういう法律ができるまで、そういう言葉は無かった。少なくとも私の周囲で、日常の暮らしにおいて使われることはなかった。これに対して、プライバシーは子供の私でも知っていた言葉で、人に知られると恥ずかしいことというような意味で解釈していた。

 個人情報保護法ができたのは、今から約十年前で、私はすでにおじさんであり、つまりそれほど遠い昔ではないのだが、あっという間に個人情報は何だかものすごく重要で取扱注意の貴重品になってしまった。ないがしろにするつもりはないが、あまりに気を使うとアレルギーを起こす。


 ちょうど10年ほど前、親戚のうちにいったら、冷蔵庫に娘のクラスの緊急連絡網が貼ってあった。脱線するが、まず二つ驚いたことに、クラスの人数が二十人ちょっとで、私のころの半分だ。もう一つは、子供たちの名前の半分が読めない。ともあれ、掲載されている情報は、子供の氏名、保護者のものと思われる携帯電話番号が一つ、あとは連絡の順番を表す樹形図の線。

 母親いわくクラス関係の個人情報はこれだけで、他に名簿はないという。私が小学生のころのクラス名簿は、ほかに住所、両親の名、実家の職業まで載っていた(ただし、会社員、自営業というくらいの分類だったが)。片親や失業中だと分かってしまう。プライバシーも何もあったものではなかった。

 
 そのほうがいいと、いま言っても詮無いことだが、それにしても、ある程度は同級生・同窓生、ご近所、親戚といった、学者や報道機関が好きな用語でいうと「地縁・血縁」の範囲内でなら、個人情報や本人が何とか耐えられる程度のプライバシは共有しておいたほうが、いざというとき助かる確率が高まるというのが古い頭の信念である。

 阪神淡路や東日本の大震災のとき、あるいは今年なぜか次々と列島を襲った台風の被害が発生したとき、被災地に山間部や沿岸部が多かったこともあってか、時には有難迷惑でもある世間様のつながりがまだ残っていたようで、声をかけ合い、連れだって逃げおおせた方々の報道が多かった。都心では無理だ。向こう三軒に誰が住んでいるのか、一人も知らない。挨拶すれば良い方だ。

 二階に寝たきりのおばあちゃんがいるとか、この意識を失っているおっちゃんはインスリンが必要だとか、そういうことは普段から物見高いご近所であればこそ記憶してくれるのであり、知らせておけばGPSより役に立つ。


 時は流れた。数年前、私が実際に相談を受けた「トラブル」である。その若い女性従業員いわく、「人事の担当者が、私の健康診断の結果報告を持っていた。これは個人情報の漏洩であり、法律違反である。」と本気で怒っている。私がアレルギーと呼ぶのは、こういう誤解や過剰反応のことである。本人も周りも困るのだ。

 やむなく、健診の結果は会社が把握し、5年間保存しないといけないと法律に書いてあること、会社(法人)という抽象的存在がカルテの郵便を受け取って封を切るのは無理だから、人事担当がやるしかないし、その中身を喋ったら前科者になるという罰則もあること、そもそも誰かに漏らした証拠がないなら漏洩ではないことなど、延々と説明する羽目になった。


 実際、彼女は何らかの事情で傷ついていたのだろう。病気があるのかもしれないし、男の担当者に体重やら何やらを知られたくないのは当然だとも思う。そうだとしたら、それらはプライバシーであって、法定の個人情報ではないのだが、何かにつけ「法的根拠」をもって人を責めるご時世。肝心のプライバシー権は議論半ばだが、個人情報保護法地方自治体の条例も含め、法整備が進んでいるから「使える」。

 もっとも、個人情報保護法令が規定しているのは、大口の事業者(お役所や会社)に対して、個人情報を適正に取り扱えと云っているだけなので、組織としては就業規則やら契約やらを使って、自分らに降りかかってきた義務を、今度は従業員に対して転嫁しなければならないから、お互い大変なのだ。ただでさえ。


 それに加えて、改正草案は新設の条項として、個人情報の不当な取得や利用をするのは、「何人」たりとも許さんという義務規定を持ち込んできた。しかも、先日、自由に対する諸規定が体・心・言動というふうに並んでみえると、せっかく私が風景も楽しんでいたのに、そのど真ん中に何の脈絡もなく追記してきた。懸案のプライバシーは、「権利」なので先送りの模様。

(個人情報の不当取得の禁止等)
第十九条の二 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。


 次に私が相談を受けるときには、「憲法違反だ」という指弾になるのだろうか。たまったものではない。なぜこんな、義務を課したがるのか。一つはまず間違いなく、先般、導入された通称「マイナンバー」の「制度の保護」が目的だろう。

 せっかく徴税や将来の徴兵のため、もれなく「何人」を捕捉したばかりである。そして、だんだんと利用範囲を広げている。これが雑に扱われて「ダダ漏れ」の事故が頻発した場合、国民総背番号制の議論のころ(あれは、いつだったか)から問題視されていた、個人の全情報が一気に流出する事態を招きかねない。

 そうなったとき、制度の設計・運営側としては、国民の大反発・総すかんを避けなければならないが、事件・事故に対する責任の所在は、こう書いておけば「何人」の誰かということになる。どうも、今日はシニカルで済みません...。


 もう一つは、深読みする。今年亡くなったアルビン・トフラーが、私の学生時代に「第三の波」という著書を発表し、世界的なベストセラーになった。文明の第一波は大規模農業で、つまり人類が大自然に「ちょっかい」を出し始めたとき。第二波は、おなじみ産業革命以降の資本主義時代。そして、第三の波として、「情報の時代」「情報革命」(Information Revolution)が来つつある。

 この本は余りに分厚くて、しかも当時の私には読みづらく、書棚に飾って数十年、第三波が到来したときには時すでに遅く、逃げ切れぬまま日々、往生している。むしろ、私の印象に残ったのは、この本に対する書評の一つで、残念ながら誰なのか全く覚えていないが、「情報化時代とは、情報独占時代である」という予言であった。お見事である。


 われわれは、メールだラインだSNSだと、「つながっている」つもりになっているが、相手に関する情報は、相手が開陳しているだけの、体裁のよいごく一部の断片に過ぎない。それに加えて、憲法にあんな風に書かれたら、ますます人は無色透明になっていくだろう。自分以外は、みんな風景。

 すでに自分も巻き込まれつつ、私はそれが健全とは思わない。むしろリスクは当然ながら背負うとしても、ある程度は、どこのどいつで、どこまで変な奴か知っておいてもらった方が、かえって気楽だし、いつか役に立つかもしれない。すくなくとも、飲み会の酒の肴くらいにはなる。本気である。


 エスタブリッシュメントにとって現実に有益な情報は、ちゃくちゃくと行政や財界に集積されつつある。その情報には、私の顔立ちとか癖なんかの人間的なものは含まれておらず、「金づる」または「要注意人物対策」として使えそうなデータが独占され、囲い込まれている。

 マイナンバーのお手本になったはずの米国の社会保障番号(ソーシャル・セキュリティ・ナンバー)は、米国に駐在していたころ未だシステムのセキュリティが甘く、試しに或る人のデータを職場の端末で覗いてみたら、あっさり開いて学歴・職歴・借金残高、そして少し前に離婚した記録まで出て来たのには驚いた。あわててアカウントを閉めたが、嫌な経験だ。
 
 すでに、そういうことが至る所で起きていると思った方が良い。なお、人工知能が反乱を起こすと、どういう悲惨なことになるかというのが、現代SFのメイン・テーマの一つだった。でも反乱というよりは、むしろ「人真似」と呼んだ方が現実に近いだろう。われわれ猿回しが、調教しているのだから。せめて、連中も法のいうことを聞き入れてくれるといいのだけれど。





(おわり)






 

ご近所の園芸。お名前、存じ上げず。
(2016年9月3日撮影)











































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