おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

民法について  (第1333回)

 第12条は話題が多いので、複数回に分けて考えます。先ずは例によって、現行憲法と改正草案を並べてみる。


  【現行憲法

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。


  【改正草案】

(国民の責務)
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。


 いずれも二つの文からなり、最初の文は仮名遣いが違うだけ。中身は大事で、まず特徴として、国民が国民に命じている。どうしてか。最初に「この憲法が国民に保障する」という句があるが、これは前回の第11条にも出て来た。ただ、第11条が保障しているのは基本的人権であり、第12条は「自由及び権利」の保障である。

 この第12条の権利と、第二章のタイトルにある権利と、第11条にある基本的人権が同じものなのかどうか、よく分からないのだが、少なくとも第12条の権利はこの憲法が保障する権利の全てとも読めるし、そう読んでおいたほうが身のためだ。


 なぜなら、第11条の基本的人権も、第12章の自由及び権利も、「国民の不断の努力によつて、これを保持」する必要があるからで、憲法に書いてあるからといって、全てが何時までも安泰ではないと憲法自身が心配しているのだ。誰によって何によって害されるおそれがあるのかは書いていないが自明である。

 そもそも「保障する」という行為は、理念としてはともかく、現実は完全無欠のものではあり得ない。実際には「できるだけ守る」のが精いっぱいであることは、安全保障でも社会保障でも同様である。日米安全保障条約も、日本が救けを求めたら米軍が必ず助けに来るとは、どう読んでも読めない。そもそも先制攻撃を受けたら、国防軍があっても完全には防ぎようなどなかろう。


 社会保障も同様で、老後に年金で暮らしていけないのはおかしいというのは、お気持ちは分かるが、全員が生きている間、ひたすら年金が助けてくれるほどのお金がある時代のほうが稀有である。健康保健も、若い人は信じがたいだろうけれど、私が中高生のころは高齢者の自己負担はゼロだったのだ。ただでお医者さんに行けたから、病院は大繁盛だったのです。

 当初から制度の限界があるうえに、時代とともにその限界も変動するし、場合によっては保持しきれなくなって自由や権利を失ってしまうおそれがあると、第12条は非常に恐ろしいことを言っている。言論の自由が典型だろう。知らないうちに取り上げられていたり、場合によっては自ら放棄しかねない。一瞬たりとも気を抜くなという警告が、不断の努力という言葉に示されている。


 次に権利の濫用の禁止がある。その次に、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と続いているので、両者は関係があると考えるのが自然だろう。濫用は、職権乱用とか解雇権濫用とか、ときどき目にするが、しかし「公共の福祉」とは何か。この言葉を巡る議論が、おそらく第三章で最も重要なものになりそうな気がするので手間をかける。

 福祉というと、私もたぶん多くの人も、障害者福祉とか生活保護などを連想するくらい、社会的弱者支援の場面でよく使われる。しかし、本来これらは福祉そのものではなく、正確には社会福祉行政のことだと思う。広辞苑には「幸福。公的扶助やサービスによる生活の安定、充足」(後略)とある。「祉」は「さいわい」の意味という補足もある。自給自足も可能なものだ。


 なぜ、これに拘るかというと、前回引用した衆議院の「参考資料」にもあるが、憲法には「公共の福祉」という言葉が、第12・13・22・29条の四か所に出てくる。改正草案ではこのうち、なぜか第22条では削除され、すでにご指摘が多いが残りの三条においては、いずれも「公益及び公の秩序」に置き換えられており、つまり全滅している。よほどの強い意思が働いているのだ。

 この件は次回に詳述するとして、取りあえずここで「公共」という言葉を、「個人の」に対する「みんなの」という意味にとらえれば、現行憲法の表現はごく普通の社会常識的なもので、権利の行使も自由なふるまいも、他人様の「しあわせ・さいわい」を邪魔しないよう、ほどほどにしておくようにということだろう。


 今回は最後に、別の法律をみる。仕事柄、憲法は読んでいなかった私も、民法はときどき必要に迫られて、または、勉強のために該当箇所を読んでいる。全部で千条を超えるので通読は無理だが、この民法の冒頭、第1条から第3条までを引用する(章や節の名は省く)。

 (基本原則)
第一条  私権は、公共の福祉に適合しなければならない。
2  権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。
3  権利の濫用は、これを許さない。

(解釈の基準)
第二条  この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない。

第三条  私権の享有は、出生に始まる。
2  外国人は、法令又は条約の規定により禁止される場合を除き、私権を享有する。


 この第3条が、前回のテーマに近い。ただし、私権とは憲法の権利とは異なり、個人の権利だけではくて、法人の権利も含むそうだ。ともあれやはり、享有は出生に始まるのだ。さて、今回は民法第1条に着目する。明らかに、憲法第12条と関係がある。特に最初の最初、第1項に「公共の福祉」が出てくるのだ。

 この「公共の福祉に適合しなければならない」という表現は、憲法第12条の「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と共通部分があるように思う。通常、権利を行使するときは相手がいる。ひそかに信仰するなどという場合を除けば、いつも社会的行為であるはずだ。世のため人のためという観点も忘れるなということでしょう。


 改正草案は、もし決議されたら、この民法の基本原則の筆頭も改めるつもりなのだろうか。それとも憲法民法の総括的部分が、別々のままで構わないのだろうか。商事法も労働法も、広大な民事法体系の一部だ。置き換えるとしたら、ものすごく大きな影響が出るのではないか。

 これについては、次回以降にもう少し追加で考えます。なお、民法の第1条は続く第2項が、いわゆる「信義則」。私たちの「不断の努力」には、もちろんこれも含まれる。約束を守らない者は、権利を振りかざしてはダメなのだ。第3項の濫用禁止は、読んで字の如し。つづく。




(おわり)





先日の虹、別の写真。
(2016年8月19日撮影)










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