おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

基本的人権の享有  (第1332回)

 憲法第三章の「国民の権利及び義務」は、その前の天皇や戦争の放棄の章と比べ、われわれの暮らしに直接かかわる度合いが大きいと書いた。勿論そうなのだが、ではスラスラ読めるかというと、知っているつもりでよく知らない言葉が出てくるし、改正草案が書き改めている部分も少なくないので、軽く流すわけにもいかない、ということが最近わかった。

 特に、第11章から第13章までは総括的で大事な内容のものとみた。一言でいうと第11章は国民の権利、第12章は国民の責任、第13章はいわゆる生存権の定め。そのあとに各論的なものが続く構成になっていると理解している。今回は第11章です。


 【現行憲法

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 【改正草案】

基本的人権の享有)
第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。


 同条において、私にとっての「知っているつもりでよく知らない言葉」は、恥ずかしながらキーワードの「基本的人権」と「享有」。今日のタイトルにしました。先日、中学で「基本的人権」を習って感銘を受けたという趣旨のことを書いたが、要は中学生にも権利があるんだというような驚き程度のことであって、その中身を知って感激したわけではない。

 まずは、衆議院の資料をみてみる。こういうデータも、いつの間にか消えたりすると困るので、最近、大事だと思うものはPDFで保管することにした。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi031.pdf/$File/shukenshi031.pdf


 この資料は、このあとも何度か引用する予定だが、何といっても冒頭が基本的人権についてだから、見逃せない。平成十五年の「参考資料」である。この年は小泉政権下で、今の総理が幹事長になられた。年間で一番売れた歌は、SMAPの「世界で一つだけの花」。

 しかし、正直にも程があるというか、第1ページにいきなり「多数説」とあり、第3ページには「アメリカとフランスで国民の権利の観念自体が大きく異なっており」と来ては、全世界的に確たる定義はないということらしい。他方、「憲法以前に成立していると考えられる権利」という表現は新鮮だな。


 ときおり天皇基本的人権はないという意見を耳にするが、冗談ではない。確かに部分的に制限されているが、そもそも「基本的人権がある・ない」と、「基本的人権憲法で保障されている・いない」とでは雲泥の差がある。多数説では、憲法より前に基本的人権はある。あとは憲法が、それをどう扱うかだ。

 ともあれ、基本的人権が個別具体的に何であるかは、各国の憲法等で明確にするということなのだろう。国より時代により異なるのだ。憲法の英文では「基本的」という形容詞に「ファンダメンタル」を使っている。基本とか基礎とかいう意味だが、アドバンスの対語(初心者コース的)ではなく、外せない土台みたいなもので、例えば基礎物理学の基礎だ。


 次は「享有」。先ずは広辞苑第六版によると、「権利・能力など無形のものを、生まれながらに身につけて持っていること」である。「享」の字が、そもそもなじみが薄い。すぐに思い出すのは享保の改革か、「享年」「享受」ぐらいだ。享年とは、生まれつき天から頂戴した寿命のこと。意味合いとしては、全体に目出度くて有難いものだ。

 享有という日常的ではない言葉を用いた理由は、まず間違いないと思うのだが、大日本帝国憲法が類似の趣旨で使っているからだろう。ただし、本文ではなくて前文。「朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス」。


 旧憲法の権利は天皇陛下からもらっているという主張があるが(衆議院の上記資料にもある)、明治憲法を読む限り、私は意見が異なる。朕は享有を完全ならしむと仰っているのだ。他方で、現行憲法の英語版も、必ずしも「生まれつき」という表現ではない。しかし、論調は強い。

 Article 11. The people shall not be prevented from enjoying any of the fundamental human rights. These fundamental human rights guaranteed to the people by this Constitution shall be conferred upon the people of this and future generations as eternal and inviolate rights.


 「エンジョイ」のニュアンスは、享受に近いだろう。しかし、「shall not be prevented from」は、厳しい命令といっていい。国民が国家権力に倒して、「邪魔だてするな」と申しておる。これと比較して、改正草案は「享受する。」と単なる事実確認的になっている。

 繰り返すが、どうせ認めるなら、潔く認めた方がいいと思います。認めたくないと行間に書いてあるようにしか思えないではないか。文末近くの「将来の国民」を省くのも同様である。何だか、いちゃもん風に終わるのも後味が悪いので雑談を二つ。


 歴史の授業で習った。人権はアメリカの独立戦争や、フランス革命などの果実である。明治憲法の起草者たちも知っていた。国連人権宣言が名高いが、この日本国憲法の次の年にできているのだ。学生時代に司馬遼太郎の小説を読んでいて、幕末維新の志士が、「ワシントン翁」やナポレオンを市民革命を英雄と見なしているのをみて、やはり武家は軍人が好きなんだろうなと思ったものだ。

 今は単純にそうは思わない。もしもジョージ・ワシントンが、終身の最高権力者になる道を拒まなかったら、きっとアメリカだけではなくて世界の歴史も大きく変わっていたはずだ。一ドル札の彼の顔をみて、なぜ一番少額の紙幣に使っているのだろうと思っていたが、あまり多額の現金を持ち歩かない米国民は、きっと毎日のように顔を合わす相手として彼を選んだのだと思う。


 もう一丁。私がオリンピックで初めて日本人が表彰台に二人上がったのを見たときの記憶は鮮明で、1968年メキシコ・シティ大会の男子重量挙げ。三宅兄弟が一位と三位になった。リオでバーベルに頬を寄せていた三宅娘は、もちろんこの栄光の一族の出身です。

 同じメキシコ・シティの大会で、男子陸上200メートルでは(それにしても、ボルトは人類か)、アメリカの選手が同じように一位と三位になった。この二人が大変な「問題」を起こして追放処分になっている。そのときの物語が、英文ですが次のサイトにあります。ぜひ時間があるときに目を通してみてください。


 最初に出てくる写真に見覚えのある方もいらっしゃると思う。今回これを思い出したのは、リオで二位に入ったエチオピアのマラソン・ランナーのインタビューを読んだのがきっかけです。アベベの国だ。日本国民が何を守るべきなのかを考えながら憲法を読む。

griotmag.com







(おわり)




たたかう君のうたを たたかわない奴らが嗤うだろう − 中島みゆき














































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