おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

公共ノ福祉  (第1334回)

 今日は、少し堅苦しい話になりそうですが、でも折角の機会。もう二度と「公共の福祉」なるものを、こうまで話題にすることはないと思うので、調べ事の結果や感想を書き残します。前回において、憲法第12条と、民法第1条がけっこう似ているという話題に触れました。

 拙宅には、民法に関する本がある。これは仕事で、ときどき契約の箇所を読む必要がりり、私にはかなり高価だったが、人に薦められた古本を五冊一揃えで買ったものだ。星野英一著「民法概論」で、6万円余もした。星野先生は、この本がうちに届く少し前にお亡くなりになりました。合掌。


 このシリーズの第一巻が「序論・総則」。昭和46年発行、まだ民法が旧仮名遣いだった時代。この本に「公共ノ福祉」が載っている。それはそうだ、第1条第1項だものね。ただし、後述するように、「基本原則」なので、さほど具体的な解説はない。それより経緯が興味深い。

 本書はまず、「戦後挿入された民法一条の一項」と始まる。その改正は昭和二十二年だそうだから、日本国憲法と同い年である。偶然ではなかろう。その当時の条文は、「私権ハ公共ノ福祉ニ遵フ」であったそうだ。「遵フ」という表現は寡聞にして初めて接するが、遵守のことで「したがう」と読む。現在の条文は再掲すると、「私権は、公共の福祉に適合しなければならない」。


 面白いのは、この改正条項の原案が、戦後の国会で修正されたそうなのだ。元々は、「私権ハ公共ノ為ニ存ス」だったそうで、単なる優先順位というより、従属関係のような言い方だ。国会では誰が気合いを入れたか書いていないが、「これでは個人を無視しており、全体主義に陥る危険がある」という反対意見が通って、上記の修正がなされた。

 全体主義は、「コトバンク」にある「ブリタニカ国際大百科事典」の解説が分かりやすい。すなわち、「個人の利益よりも全体の利益が優先し,全体に尽すことによってのみ個人の利益が増進するという前提に基づいた政治体制で,一つのグループが絶対的な政治権力を全体,あるいは人民の名において独占するものをいう」のだ。


 この「人民の名において」というのが曲者で、見た目は国民の庇護者のごとくふるまう国家というと、世界地図では日本から数センチのところに「人民」の国が複数ある。ファシズム時代の日本のスローガンは、今だからこそ言えるが、七五調の名コピーが揃っている。進め一億、火の玉だ。欲しがりません、勝つまでは。これでは、思わず全体に尽くしてしまうな。

 解説の続きには、「ある人の権利は、結局、他人の権利と接触し、衝突するものであり、それとの調和を考えなければならないものである。特に、財産権においてそうである。」とあり、憲法が「公共の福祉」を大事にしている事情が、端的に記されている。あくまで、接触・衝突する相手との調和を優先するものであって、公権力に従うことではない。


 後半の「特に、財産権においてそうである」というのは、私たちが日常経験しているもので、お金の揉めごとがすごく多い。借金だの相続だの契約違反だの。この財産関係については、後日改めて話題にしなければならない。改正草案の素顔が見える箇所で触れる。第22条と第29条。

 法の趣旨の由来まで書いてある。やっぱり、これが出て来たかという感じで、ドイツのワイマール憲法に、「所有権は義務を伴う。その行使は、同時に公共の福祉に役立たなければならない。」という規定があったそうで、民法はこれを権利一般に広げたのだそうだ。


 後半は、「しかし」で繋がり、「公共ノ福祉ニ遵フ」は意味があまりはっきりせず、「憲法にも数か所出てきてほぼ同じ意味であるといえばよさそうだが、憲法におけるその意味も、そう明らかでない」ということだから、私がいくら悩んでも、これ以上は無理なわけだ。

 それでも流石は6万円の解説書、「ここでは、いちおう、ある権利のみでなく、対立する他の権利との調和をはかること、一個人の権利が多数人の合理的な利益に反する場合には、後者を優先させること、としておけば足りよう」ということで、そのようなことは幼稚園や小学校でも、散々、叱られて育ってきた私たちである。


 その続きは、「要するに、各規定の妥当な解釈をすれば十分であるから」と締めくくられている。憲法も、このあと続く各論の権利と義務に関する個々の条項を見ずして、この総論のみの抽象的な中身を検討するのも、限界があるということでしょう。

 最後に、著者はそのあとの但し書きで、日本は西洋と異なり、権利の主張が何か悪いことのように感じる気風があるため、「権利は公共の福祉に従わなければならないと言いくるめられることがある」と警鐘を鳴らしてみえる。現状でさえ「危険」だと明言しておられるのだ。では、それについてどのような改正が試みられているのか、次回、拝見します。


 ちなみに、今月8日に天王陛下の「お言葉表明」が公共放送で放映された際(公共ねえ)、陛下の向かって右後ろに置かれていた大きな皿は、益子焼であったらしい。益子のみなさんが、多分間違いないと云っていらした。両陛下は故あって、今上は同地にいらしたこともあるらしい。

 福祉という言葉は、前回も書いたように、現代では「しあわせ」や「さいわい」が不足している方々への支援・援助の意味で使われることが多い。「社会福祉法」で検索すると、その対象は多種多様であることが分かる。この混乱を避けるためか、皇室はときどき「安寧」という表現をお使いになる。8月8日も、そうだった。




(おわり)






益子焼 (2016年8月22日撮影、東京は台風)













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