おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

黒田家譜のことなど  (第1306回)

 先日、写真を載せた小寺文書「認」の内容に入る前に、前回も触れた「黒田家譜」の話題を出しておきたい。関連が強いからである。その訳は理想としては、両者が同じ情報源から真実の情報を得た結果であり、たぶん実際には、小寺文書を書いた人は「黒田家譜」か、その台本になったストーリーを知っている。真偽はともかく。

 この本は古本屋で探しても売っていなかった。近所の区立図書館にもなかった。やむなく天下の国立国会図書館に赴き、検索したところ似たような名前の本も含めて何十巻も出て来たので驚いた。さらに、やむなく試しに第一巻だけ借りたら、とても分厚い。これは「読むな」と言っているように感じた。


 せっかく国会図書館に行ったのだからという貧乏人根性丸出しで、最初のほうのページだけ数十枚をコピーしてもらった。そのときの恐れ多い写しが今も手元にあります。ちなみに、いくらなんでも貝原益軒先生の原本ではなく、それを活字に起こした書籍のコピーである。原本の書体なぞ読めるはずがないから、これでちょうど良いのだ。

 そもそも私は黒田家譜を「くろだけふ」と読むのか「くろだかふ」と読むのか、どちらが正しいのかも知らない。「家譜」は「かふ」と読むのだが、「黒田家」の「譜」なら「くろだけふ」と読むべきだろう。家譜も譜もうちの広辞苑に載っている。意味はだいたい同じで要は系図のことだ。「黒田」の「家譜」では殿様の家を呼び捨てということになるので、くろだけふが自然だろうか。


 福岡県に県立の九州歴史資料館という施設があるらしい。ここの情報によると、黒田家譜は全16巻もあるそうだ。数字見ただけで読む気がしぼんでしまう。これだけの量で主人公は官兵衛と初代の長政だけ。二代目の黒田忠之さんの事績は、第二弾の「黒田続家譜」に書かれている。早速、先ほどの説が怪しくなった。「続」の挿入部分がど真ん中である。「黒田」の「家譜」と「続家譜」なのか。


 呼び名の悩みはこの辺で止めておいて、黒田家譜の作者は藩授・貝原益軒と、その高弟・武田定直というコンビで書いているらしい。貝原先生は「養生訓」で名高い。どうやら儒教より医学のほうがお好きだったのではなかろうか。今でも医師の書いた文章に養生訓からの引用を時々見かけるから、きっと本格的である。

 てっきり「養生訓」で名が売れて、そのため家譜の執筆を命じられたのかと思いきや、順番が逆で「黒田家譜」を先に書き上げ、養生訓は70歳を超えてからの大力作である。きっと、延々と史書を書きながら、長生きして医学書を書いてやるとの信念で養生しているうちに医学薬学に更に詳しくなったに違いない。


 長生きすれば何とかなると思ったに違いないと私が考えている人がもう一人いる。徳川家康。彼は人生のどこかで、自分以外の名将(自分以上というべきか)が、そろって自分より先輩であることに気付いたはずだ。長生きした方が勝ちである。

 彼の医学・薬学の知識は専門家顔負けだったらしく、当代屈指であったと聞いたことがある。軍事上の必要性があって勉強したのだろう。さっさと二代目に将軍職を放り投げて、私の実家がある気候温暖な静岡に隠居した。大阪の陣はその後のことである。


 その家康は官兵衛には何故か領地を与えず、長子・長政を藩主として筑前国の大名とした。福岡という地名についてはいずれ書くが、かれら黒田氏にゆかりのある別の場所にある地名から頂戴した。備前にある。先祖が一時期、ここにいたことになっているのだ。この点は播磨説の一番の弱点である。

 博多の都市設計をしたのも、官兵衛と長政の共同事業だったらしい。司馬遼太郎によると徳川家康は、西にある薩摩と長州を恐れ(さらには中国や朝鮮も恐れたとか)、江戸に攻めて来ないように姫路・大阪・名古屋の城を置き、大井川に橋をかけず、九州には大大名を置いて備えた。十五代目の将軍時代に嫌な予感は的中したのだった。


 福岡藩は長州とは一衣帯水の距離だし、薩摩も来るときはここに来るだろう。実際、第二次長州征伐のときは九州も戦場になり、高杉晋作が最後の戦いに臨んでいる。そのとき黒田家は余り動きが良くなくて時勢に遅れた。

 さて、この黒田家譜については詳細を書くつもりはないけれども、やはり官兵衛に至るまでの系図だけは無視できない。「認」に入る前に、一応、格上の黒田家譜に敬意を表して、冒頭部分の概要に触れます。ただし、その前にもう一か所、寄り道する必要がある。



(この稿おわり)




白鷺。姫路城の綽名。不忍池では初めて見た。
(2014年8月10日、上野にて撮影)













































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